雷蔵の映画をもっとも数多く撮ったのは、森一生である。森は、1989年六月二十九日に肝硬変で病死している。が、その存命中に映画評論家の山根貞男とロングインタビューを行ない、死後にその書(「森一生・映画旅」)が刊行されている。そのなかで、森は雷蔵について至るところで絶賛している。

−雷ちゃんには養子に行ったときなど人間的な苦しみがいろいろあったと思う。誰にもいっていない苦しみというのがあって、それがシャシンにもでている。雷ちゃんはじっとそれに耐えてそれを芝居にまでもっていた。いつも何か苦しみがでていてね、それがぼくには合うんです。

 映画監督はすぐに雷蔵という素材が並みのものでないと見抜く。そしてこの素材を使いたがる。雷蔵は監督にはもっとも人気のあるスターでもあった。

 山根もまた雷蔵のデビュー作品を見て、新しいスターが生れてきたと思ったという。

 「森監督は、雷蔵について“さわやかな悲しさがある”と評していましたが、これには私もまったく同感なんです。悲劇を演じることが多いのですが、ただ暗くゆううつというのではなく、どこかにスカッとした面があります。悲しみとさわやかさの両面を備えた役者というのは雷蔵以外にはいません」

 山根の評によると、雷蔵の生きた時代は時代劇が終わりを告げ、やくざ映画にとかわるころだったという。大映は、雷蔵と勝をつかって映画史上最後の時代劇をつくっていたのである。スターも長谷川一夫から雷蔵と勝にかわっていき、監督も森や三隅、それに池広一夫、田中徳三という世代にかわっていった。映画技術の面でも「アップの時代は終わった」といことだ。

 長谷川一夫や片岡千恵蔵らは、監督に対しても顔のアップを数多く撮るよう要求した。そうすればファンの満足が得られるというのである。だがアップは諸刃の剣だ。アップが重なることで、映画の流れはとまってしまう。雷蔵はどの監督にも決してアップの要求はしなかった。すべてを監督任せにしていた。いま雷蔵の映画が人気があるのは、当時の観客におもねた映画づくりをしていなかったからだ。

 雷蔵が「芸は人の命より長い」と、撮影所の製作部に入ってきてつぶやいたのは、そういうアップの映画づくりに対しての抗議だったのではないかと思われるのだ。