章雄・嘉男・吉哉そして雷蔵

−37年の短い生涯を駆け抜けた雷蔵。

章雄・嘉男・莚蔵・吉哉、どんな時も彼は真摯に生きた。−

 はかないことの譬えに「銀幕の恋」という言葉があった。美男スターが微笑みかける。われを忘れて笑みを返すと、エンドマークが写り、場内が明るくなる。お腹の虫がキューッと鳴って、美男スターへの純愛どこへやら「帰りはアンミツにしようかしら、お好み焼きがいいかしら」・・・・となる。

 それを思い合わせると、市川雷蔵の人気は、異様というほかにない。昭和四十四年七月十七日に死んだが、二十余年を経た今日なお、新しいファンが増えている。

 新聞の切り抜きを辿ってみると、雷蔵ブームは、どうやら十年周期で噴出するらしい。死後十年の昭和五十三年、東京で「雷蔵を偲ぶ会」というのがあって、市川雷蔵賞というものを設定、撮影技師の宮川一夫に賞を贈っている。この会は、東京・上落合の薬局店経営・石川よし子という人が会長で、会員四百六十人。その大半は二十歳前後の女性で、最年少は十二歳だと、紹介されている。いずれにせよ、雷蔵生前の華々しさを知らない会員が多数派なのである。さらに約十年後の平成三年五月に、大阪・心斎橋のキリンプラザ大阪の六階ホールで「RAIZO’91」と銘打ち、雷蔵主演映画四十四本を四日間にわたって集中上映して、ほぼ満席という興行成績を収めた。続く平成四年には更に規模を拡大「RAIZO’92」として、大阪・上六の近鉄小劇場が、雷蔵映画三十五本を、八月十日から二十一日まで、十二日間にわたり、総入れ替え制で一日五本ずつ上映している。入場料一回千二百円。五回綴りの回数券や、いつでも入場できるフリーパス券二万円まで発売した。

 市川雷蔵の何が、かくも魅惑なのか。もちろん答えは多様だが、おおよそには分類できる。

第一の分類。白馬にまたがる美剣士のイメージ。桜花の下を駆ける凛々しさ。『鞍馬天狗』の世界。

第二の分類。逆境にあっても、魂の清らかさを失わない若武者の高貴さ。桧の、さわやかな香り。『若き日の信長』『忠直卿行状記』の世界。

第三の分類。明るい顔立ちの中に、淋しい翳。虚無とそして一抹の哀愁。晩年の『眠狂四郎』の世界。

 −以上になろうか。

 序でに、スクリーン以外につきあっている人たちの雷蔵評を記すると、

曰く。計算の男(昭和44年8月2日号、週刊新潮)街を歩く姿は銀行マンに近い。女遊びせず、酒・煙草ほどほど。結婚相手に永田雅一・大映社長の養女を選ぶ。

曰く。理論家。(シナリオ作家・八尋不二著「百八人の侍」)何にでも一理屈なくては済まぬのである。(略)或いは政治家になるべきであったかも知れない。

 −ということになろうか。撮影所関係者の異口同音にいう雷蔵評は、映画スターらしくない生真面目 人間である。

 雷蔵を一枚のスチール写真で見る限り、美男子ではないが、映画で見ると、水もしたたるよう。つまり完全に二枚目なのだが、それでいて最も力量を発揮するのは『炎上』『新・平家物語』の劣等感の表現であった。相反するものの同居している複雑さが、実は雷蔵をして、死後なお新しいファンを獲得させる魅力、近代性なのである。もとより単に美男であるだけではスターになれない時代ではあるが、この雷蔵の屈折した性格は、では何に由来するのであろうか。解く鍵は、出生にさかのぼらねばならない。

 昭和六年八月二十九日に、雷蔵は出生した。役所に届けだされた名前は、亀崎章雄である。ところで、雷蔵が出生時の名前を、亀崎章雄と知るのは、ずっと後の昭和十九年三月、大阪府立天王寺中学校を受験する時であった。志願書類には戸籍謄本がいる。雷蔵は、その時まで、自分を竹内嘉男という名前だと、信じ切っていたのである。

 亀崎章雄 ・ 竹内嘉男 後さらに、大田吉哉という名前に変わるのであるが、それはさておいて、二つの名の違いは、実父母だと信じ切っていた父母が、養父母だったことによる。養父の名は竹内嘉三。関西歌舞伎の脇役俳優の市川九団次が、雷蔵を生後六か月から、まったくの実子として、いつくしんでくれていたのであった。小学校六年生の可愛がられて育った独りっ子が。偶然かいま見た深淵 − 自分の出生に秘密があると気づいた時、父母に「なぜ?」と、どうして問いただすことができよう。雷蔵は、咽喉から出かかった「なぜ」を押し止めた。理由があるに違いない。しかし理由とは、一体何だろう。 - 口にしてはならないことだけは子供心にも、はっきり判った。雷蔵(嘉男)は気づかぬふりをする。気づかないふりのままで、一生を過ごせるものなら、それでいい、と心にきめる。まま親ではない。本当の親としか思えなかったからである。秘密が氷解し、生みの母と対面することになったのはそれから二十年後のことである。

    

 

寿海が