実の父母と信じていた親が、実は養父母であったとしても、雷蔵の少年時代が不幸であったということにはならない。逆に溺愛を受けて育ったようである。

 雷蔵はあまり過去を語らない人であるが、珍しく、後援会の機関誌「よ志哉」の昭和33年秋号に、地蔵盆の思い出を綴っている。

 地蔵盆というのは、毎年夏休みの終り頃に町内ごとにお地蔵さんをお祀りして、子供たちばかりで、その供物をいただいたり、縁台で余興をしたりして、一日をたっぷり楽しむ関西独特の風習なのです。当時、上本町(註=大阪市天王寺区)の七丁目に住んでいた私たちの近所は四十世帯ばかり、親たちも子供たちも親しくつき合っていて、地蔵盆も盛大でした。この地蔵盆で、私が縁台に上がって、今は亡き養父母が買ってくれた紙芝居を、少年少女たちの前で得意になって、演じたものでした。・・・(略)・・・養父母は、いつも口癖のように、私が無事息災に通学できるのも、お地蔵さんのお蔭だと私にいいきかせていたことなど思い出は尽きません。

 この小文は、NHKのテレビ番組「私の秘密」に出演して、雷蔵の熱弁になる紙芝居を見たという幼な友達と対面した報告記録なのだが、人生に対する懐疑など一かけらもない明るい少年時代を想像させる。

 学校の成績も、よかったようだ。なぜなら桃ケ丘小学校を卒業すると、天王寺中学校に入学しているからである。大阪で天中といえば、北野中学と双璧の、秀才集まる名門校であった。同級生・但野道臣によれば、中学時代の仇名は「お嬢さん」だったという。入学時は昭和十九年。太平洋戦争の末期で、田中栄一郎校長は「男らしく堂々と闘え」と朝礼に訓辞していた時代だから「お嬢さん」では具合が悪いはずだが、硬派の生徒から別段いじめられていた記憶がないというのも、内面に芯の強さを秘めていたからだろうと、同級生は語っている。

 この中学時代に雷蔵は自分の進路を決めた。自分の親が、実の親でないことを知って以来、わだかまっていた気持ちの悶々を、恐らく、ふっ切ったのであろう。中学三年を終えた時点で退学した。従って雷蔵の最終学歴は、旧制中学三年中退ということになる。昭和二十二年三月のことである。同年四月から、六三学制が発足して男女共学になった。雷蔵は偶然、六三制を拒否する形で学校をやめた。やめた理由は、養父と同じ梨園の道を歩むためで、役者に学問は不要と割り切ったのである。そして初舞台を八か月後の十一月に踏む。大阪歌舞伎座の関西歌舞伎公演。「中山七里」の娘のお花。芸名は養父の若い頃の名・市川莚蔵を名乗る。

 一般に歌舞伎役者の場合、初舞台は早い。雷蔵と同年生まれの三代目中村鴈治郎(現 四代目坂田藤十郎)は、昭和十六年、満九歳である。いわゆる子役として初舞台を踏むのが例だ。雷蔵は十七歳になっていたから、子役ではない。さりとて若手というには若い。変声期の中途半端なスタートである。しかし敢えて、雷蔵は自分を賭けた。養父・市川九団次は、脇役の役者。いわゆる「三階さん」と呼ばれる階層である。現代教養文庫「市川雷蔵かげろうの死」( 田山力哉著・平成2年刊 )によれば、九団次は、京都市会議員の子であったが、役者にあこがれて上京、市川左団次の門に入り、市川莚蔵の名を貰った。大正初期に京都に帰って、中村扇雀( 二世・鴈治郎 )の青年歌舞伎に加わり、以来ずっと関西歌舞伎の脇役専門役者として歩み続けたという。

 歌舞伎の世界は階級制度が厳然としていて、劇場の表正面に名札が掲げられる名題役者でないと一人前でない。楽屋が、女形は中二階、脇役は三階にあって、またの名、大部屋と言う雑居であった。とはいっても、老巧な連中は、古い型や約束事を熟知しているから、御曹司の名題役者が教えを乞いにくる。三階さんが手とり足とり、後見しなければ、幹部俳優は、初役の狂言を演じることができないのである。しかし対外的には、影の存在にすぎない。三階さんとしての養父を、雷蔵は敬慕していた。だから、同じ道を選んだ。三階さんの子が役者になっても、三階さんで終わるのが、通例であることを、雷蔵は知らなかったわけではない。反対に、養父・九団次のほうは身に沁みていた。だから、梨園でない道−中学校に雷蔵を進ませた。しかし雷蔵は、養父の敷いてくれた道を振り捨てて、養父と同じ下積みの道を選んだのである。実の父でないことを自覚した時以来、雷蔵は、養父を、実の親として考えようと、心を固めたと考えられる。実の親子となる唯一の方法は、同じ道を歩むこと以外にないのだから。