昭和二十四年十二月、武智歌舞伎によって、莚蔵は世に出る幸運をつかんだ。
武智歌舞伎というのは、武智鉄二の新演出による“歌舞伎ルネッサンス運動”である。歌舞伎は、古典となって形骸化した。もともとは、人間くさい現代劇であったはず。成立時点に戻ってリアリズムに演じてみようというものである。殴る真似をし、泣く真似をするのが演技ではない。本当に殴って、痛さの余り本当に泣いてこそ、観客の胸を打つ舞台になる、という主張で、若手たちを容赦なく鍛えた。そのスパルタぶりは、伝説化している。延二郎は「北條がなんじゃ」という短いセリフを、まる一日、反復した。鶴之助は息をつめて、弁慶の六法を踏めと命じられて失神した。莚蔵はというと、この激しい稽古を、天性の資質でサラリと受けながした。資質の一つは、クールさである。莚蔵に舞踊の振りをつけた井上八千代の回想を引用する。
熱演型の鶴之助さんは、それこそ頭からポッポと湯気が立ちそうなひどい汗で、浴衣はずくずくになりますし、見るからにお気の毒なようすでしたが、一方雷蔵さんの方は、もちろん一生懸命に違いないのですが、汗一つ出るでなし、けろりと涼しい顔でした。(
侍 − 市川雷蔵その人と芸 )
資質の、もう一つは、おっとりした風格である。武智鉄二の回想も引用しよう。
特に雷蔵のノンビリぶりは超絶的だった。そのくせ「先生、それは昨日教えはったことと違いまっせ」と逆襲してきた。「今日のほうが正しいんだ」と、ぴしゃりと言うと「はっきりしてもらわんと困るなあ」と口答えした。その、とぼけた言いっぷりが、とても愛敬があって、緊張しすぎた稽古場の雰囲気をやわらげるのに、奇妙に役立った。(
侍 − 市川雷蔵その人と芸 )
稽古場では、お互いを愛称で呼び合った。延二郎は、延ぼん。鶴之助は、はじめちゃん。扇雀は、ぼんやん。そして莚蔵は、なんと「なまこのヨシ」であった。ヨシは本名の嘉男からきているが、なぜ「なまこ」なのか。頼りないようでいて歯ごたえがあるから、と説明されているが、もとより愛称は、論理的なもので命名されない。ふてぶてしい屈曲した青春を、なんとなく感じさせる愛称ではなかろうか。ともあれ、第一回公演の「野崎村」の久松に続いて、翌二十五年五月、第二回公演で「妹背山」の求女を演ずるに及んで、莚蔵の才華が、注目を浴びる。演劇雑誌「観照」(25年10月号)の合評を見よう。
大西重孝:
莚蔵の求女はよかった。キリットした男ぶりで、ためた力が極まり極まりに、よい型をみせた。
沼雨:貴族的な雰囲気をよく出していた。
多田嘉七:
単なる色気でなく、淡海公の肝を見せていたね。
激賞である。谷崎潤一郎も賞賛したという。莚蔵この時、十九歳だったが、生涯を通じて舞台で見せた演技のなかで、この求女が最高であった、というのが、歌舞伎通たちの一致した意見である。たちまち「幕間」という雑誌の人気投票で、莚蔵は二十五年度の第一位を占める。ちなみに二位は我当(十三世片岡仁左衛門)、三位は鴈治郎(二世・昭和58年4月13日歿)、四位は鶴之助(現在の富十郎)、五位扇雀(現在の四世藤十郎)。莚蔵の、この大化けに目を細めた武智鉄二は、莚蔵に良い名跡を継がせたいと考えた。武智歌舞伎でこそ、当たり役が生まれた。この人気とまだまだ伸びる実力を持ちながら、莚蔵は、本公演では無視された。武智が目をつけた空き名跡は、中村雀右衛門であった。幸い、未亡人・中島ちかと面識がある。武智が直接、交渉したが、その返事は案に相違の厳しいものであった。「名門のお子なら、ぼんくらでもお譲りします。脇役さんの子では、いくら先生のお話でも・・・・」「駄目か。莚蔵は大ものなんだ。立派な役者になるに違いないんだよ」「万一ということがございましょう。もし、なってもらえなんだら、申し訳たちません。お断りします」
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