脇役俳優の子であるという理由で、中村雀右衛門の名跡を拒まれた莚蔵に、養子話が持ちあがる。相手は市川寿海。すばらしい幸運である。しかし当人は、必ずしも幸運の女神と受けとめたわけではない。二十六年五月。文楽座で、若手抜擢の花形歌舞伎公演があった。若手というのは、扇雀と鶴之助のこと。このコンビで「鳥辺山心中」を出すことになり、莚蔵は、お花の役で助演した。鳥辺山は、市川寿海の当たり狂言だから、寿海は乞われて演技指導をした。このとき寿海が、莚蔵の実力を認め、養子縁組を申し出たのであった。

 市川寿海。明治十九年生まれ。仕立て職人の子で、門閥がないためさんざん苦労した。明治三十八年、五世・寿美蔵の養子になることによって、名題役者に昇進、同四十年、六世・寿美蔵を継いだが、実力に応じた処遇を受けることができず、猿之助( 後の猿翁=昭和38年6月12日歿 )と新鋭劇団を作ったり、東宝劇団に参加したりで、絶えず傍流を歩いてきた。昭和二十二年、関西歌舞伎に移籍して同二十四年、三世寿海を襲名した。寿海は後に人間国宝、芸術院会員に選ばれるのであるが、この頃は移籍してきて四年目。関西歌舞伎では孤立した存在であった。実力があっても、脇役俳優の子として冷遇されている莚蔵に、昔の自分の姿を見たのであろう。その上、嗣子がいない。寿海は、莚蔵の将来性に賭けて、養子として引き取り、もし万一の時の世話を委ねたいと考えたのであった。寿海は、六十四歳に達していた。

 この話を聞いた武智鉄二は、喜んで、莚蔵にお目出度うを言いに行った。菊・吉・幸・羽・・・明治以来の名優を相次いで失った今日、傍流であるといっても、寿海は梨園の長老である。その養子になることは、一流の役者の仲間入りをする未来を約束されることになる。数カ月前、中村雀右衛門の名跡を継がせることに失敗したことは、かえって幸いであった・・・。そう思った武智鉄二であったが、莚蔵の泣きべそ顔を見て、しゅんとなってしまう。莚蔵の本心としては、迷惑至極だったのである。実の親でないだけに、十九歳の今日まで、実の子以上に可愛がって育ててくれた両親を、いかに将来のためといいながら、弊履のように捨てるわけにはいかない。聞きたくもない話であった。

 この時莚蔵を説得したのは、当の養父・九団次であった。脇役の悲哀は長年、身にしみている。武智歌舞伎でこそ、抜擢されたが、本公演では、いつまでたっても科白のある役がもらえないではないか。なまじ雑誌「幕間」の人気投票で、関西一位に選ばれただけに、前途が哀れである。出世のためだから、お前を手放しても淋しくない。淋しいのは、逆に、脇役役者としてしか生きようのない現在のお前を見ることだ。親の私が喜んでいるのだから、お前も喜んで、寿海さんの許へ、行ってもらいたいと思う・・・・。男親は、進んで覚悟をきめたけれど、女親のはなは未練であった。脇役でいいじゃないの。たとえ乞食しようとも、親子三人水入らずなら、そのほうが幸福じゃないの、と身も世もあらぬ嘆きであった。九団次は、妻を説得した。夕食の準備に手がつかず、ひたすら泣くはなに、目刺しを焼いて皿に盛っただけの簡単な食膳をしつらえて、九団次は、親子三人膝をつきあわせ、昨日と、一昨日と、同じ言葉を、今日もまた根気よく繰り返した。「嘉男は、子のない夫婦を憐れんで、お地蔵さまの授けて下さった子供なのだ。いま、お地蔵さまにお返し申し上げよう。子を持つ喜びは、もう充分いただいた」こうして出た養子の結論に、莚蔵は条件を出した。ただ一つ、独りで下宿住まいをするという条件であった。寿海と一緒に住まないかわりに、九団次の家も出る。二親に仕えず・・・。これが莚蔵として、精一杯の、九団次に対する孝養の心であった。

 養子縁組の媒酌人は、松竹取締役の白井信太郎が勤めた。六月の大阪歌舞伎座公演「白波五人男」で莚蔵は赤星十三郎に扮して、披露を行なった。莚蔵はここで、八代目市川雷蔵を襲名した。実情は、市川新蔵という名をもらいたいと、寿海から宗家に申請した。しかし、新蔵の名跡は、未知数の人間に継がせられぬと、市川猿翁が反対した。どこまでも歌舞伎の世界は、門閥がつきまとうのである。ともあれ、二十六年六月、八世・市川雷蔵が誕生した。宝暦の昔、二世・市川団十郎の門弟によって始まった雷蔵という名は、代々、荒事を得意とする若手役者に与えられる名跡であった。屋号は柏屋。俳号は柏車。これによって竹内嘉男は、市川寿海の戸籍に入って、大田吉哉と改名した。寿海の戸籍名・太田照三の長男ということになる。三階さんの九団次の息子が、この瞬間から「梨園の長老寿海の御曹子」と、新聞に書かれるようになったわけだ。だが、その実態は、およそ御曹子にふさわしいものではなかった。

 寿海が楽屋を一つにして鏡台を並べるという、普通の親子関係のような甘さを見せず、やはり三階の大部屋に突き放されているところに、真の有り難い親心が見られる。( 富田泰彦「幕間」27年3月号 )

 親心もなにも、雷蔵がなつかないという内実のうえに、寿海が手をとって教えなければならないような大役が、一向に雷蔵に廻ってこないのであった。扇雀(現在の藤十郎)と鶴之助(現在の富十郎)の人気をあおることによって、関西歌舞伎を再建しようとしており、事実、その実績が積み重ねられつつあった。鶴之助は、生母の吾妻徳穂と共に欧米巡業をして、箔をつけた。扇雀も二十八年五月の東上で「曾根崎心中」のお初を好演して、芸術祭奨励賞と毎日演劇賞演技部門賞を受けた。

 寿海の養子になって、莚蔵から雷蔵にかわっても、一向にかわりばえするほど目立った役にもつかず、目立った成績もあげず、まるでパチンコ屋の玉売りのようにもくもくとやるばかり。( 山口広一「幕間」28年5月号 )という状態が続いて、雷蔵は、映画界入りしてしまうのである。