雷蔵の、映画スターへのステップは、足早だった。昭和二十九年七月に大映入社。同年暮(12月22日封切)の五作目『潮来出島美男剣法』で、主役を演じる。

 雷蔵時代が来たと、はっきり思わせたのは、三十三年四月封切の大映オールスター超大作『忠臣蔵』である。四十一作目だが、浅野内匠頭を演じる。本来ならば長谷川一夫の役だが、大石内蔵助に廻った。長谷川一夫そのためショックと、芸界雀は噂さする。だが三十四年六月封切の『次郎長富士』(59作目)で、長谷川一夫・清水次郎長、雷蔵・吉良の仁吉の配役を、世間は当然と受けとめた。雷蔵はこの時点で、永遠の二枚目・長谷川一夫の座を奪ったのだ。三十五年には、正月映画を独占する。『初春狸御殿』(65作目)が暮れの二十七日封切。『二人の武蔵』が一月三日封切となる。正月映画は、言うまでもなく、その映画会社の人気第一の俳優を起用するのが通例である。三十四年二月十五日号アサヒグラフは「雷蔵後援会の会員は約三千人。大半は年増の女性。男は僅かに四〜五人」と報じている。

 雷蔵育ての親・九団次は、しかし、この人気を、ついに知ることなかった。三十年十月二十六日に幽明を異にする。養母はなもまた、その少し前に死んでいる。九団次の死は雷蔵の出世作となった『新・平家物語』(9作目)の撮影中であった。死因は大動脈瘤であるが、雷蔵は、解剖を承認し、医師に乞うて解剖の場に立ち会っている。無残に切り刻まれる育ての父を正視している。寿海の養子となったその立場では、正式な喪主として、葬儀を司ることはできない。むごい解剖を、たじろがず見詰めることが、養い親への不孝を心に刻み、自身を責める報恩の心であると、雷蔵は信じたのである。寿海の籍に入って僅か四年目。このように早い別れとなるならば、養子話を保留にしておいて、九団次を送ってからでも遅くはなかろうに・・・・・。そうしたならば、二度目の養父・寿海と離れて住む不自然なことをしなくても良かったろうに・・・・。九団次にすまぬ。寿海に申し訳ない・・・・・。あれこれ悔やみこれを心に責め、果てしもない葛藤であった。こうした苦難のさなかに撮影された『新・平家物語』なのだから、雷蔵が、この作品で、新生面を拓ことができたと、言えなくもない。

 いよいよ本番。衣裳係が雷蔵に鎧を着せるのに手間どっていた。史実を調べ、本物の清盛の身体に合わせて作った大きな鎧は、華奢な彼(雷蔵)にはなじまななかった。(略)溝口(健二監督)はねちねちとしつこかった。「雷蔵君もそうです。ちゃんと着るように努力するのです。」この時突然、これまで無言だった雷蔵が大きな声でタンカを切った。「やかまし言うな−い。今日お日さんが西へ沈んだら、明日は東から出てくるわ−い。明日撮ったらええやろう」( 田山力哉「市川雷蔵かげろうの死」 )

 寿海の養子となったあと、雷蔵は洛西・鳴滝の日当り悪い山ふところに、独り住んでいた。孤独を、雷蔵は己が運命と思っていた。それは中学校入試の際に、生みの親が別にいると気づいてからの習性であった。雷蔵は過去を振り返ってはいけない人間であった。人に問えない霧のベールに包まれたものが過去であった。しかし、生みの親・亀崎富久が、突然名乗りをあげてきたのである。机上に配達された一通の手紙。そこに、雷蔵が、育ての親九団次にただすことをためらった秘密が書きつらねてあった。

 只今お知らせしたいことは、現在、生母は健在で、しかも幸福に暮している事を、ご安心頂ければ幸いです。

 差出人は、聞いたことのない名前 − 吉田与一と認めてあった。生母の甥に当たるという。雷蔵は直ちに電話した。「会わせてほしい。今すぐ」生母との対面は、翌々日に実現した。手紙の主・伏見の富久宝酒造常務、吉田家の二階。雷蔵は、撮影が延びたために午後七時の約束を、約一時間遅れた。

 生母の富久は、京都丸太町の老舗の長女として生まれた。東京の男爵家に、行儀見習い奉公をしている時に商社勤務の亀崎松太郎に見染められ結婚した。新夫が奈良聯隊に入営した時、富久の胎内に雷蔵が宿っていた。夫の留守の淋しさ。加えて婚家の厳しさに耐えかねて、富久は実家に帰り、雷蔵を出産した。富久は肺を病んで長い病床に臥し、亀崎家から離縁し、雷蔵は生後六カ月目、亀崎家の縁つづきに当たる九団次の望みにまかせてもらわれて行ったというのであった。富久は現在「再婚して、大阪。住吉に住んでいる」と述べた。

 雷蔵は、初めて出生の秘密を知った。が、自分でも不思議なくらい平静に聞いた。そして言った。 「私は九団次を、本当の父と思っています。父は、名もない役者でした。歌舞伎の世界では、門閥がなければ虫けら同様です。しかし私は役者になりました。本当の父でないと知って、それなら、私は本当の子供になりたいと思って、父の跡を継いだのです。いまは、こうしか歩みようのなかった人生と思っています。悔いもないし、まして寿海の養子となった以上は、寿海の名を恥かしめないことだけを考えています。お母さんに会えて、嬉しい。嬉しいという心に、嘘いつわりはないけれど、私には、過去のことにすぎません」

 生母との出会いの日から、雷蔵は、呪縛から解き放たれたように、結婚を急ぐ。相手は遠田恭子。日本女子大学家政学部児童科三年生。あと一年待てば、幼稚園保母の資格が得られるというのに、中途退学させて、式を挙げる。三十七年三月二十七日である。このあたり、早逝を予期したのかと思えるほど、雷蔵は急いでいる