映画会社は、柳の下の泥鰌を狙う。当たった作品をシリーズ化して、ドル箱にしたいのだ。雷蔵も幾つかの主演シリーズを持つ。「眠狂四郎」シリーズが十二本。「忍びの者」と「若親分」が各八本。「陸軍中野学校」が五本。やはり数の上からいっても、眠狂四郎が雷蔵の代表作というべきであろう。転びバテレンの子という暗い出生を背負った剣士・眠狂四郎は、三度まで戸籍の姓を変えた雷蔵の過去を二重写しにして、虚無と孤独の影をスクリーンに滲ませた。
雷蔵は、しかし映画ばかりに出てばかりいたわけではない。三度、舞台に立った。三十五年八月と四十年十一月の大阪歌舞伎座。三十九年一月の東京日生劇場である。このうち歌舞伎座に出た二回は、いずれも養父であり、人間国宝(35年2月指定)である寿海を脇役にまわしての、立役者としてである。三十五年の時は「鈴が森」の白井権八で、寿海は幡隋院長兵衛。四十年の時は真山青果作「将軍江戸を去る」で、雷蔵が山岡鉄舟、寿海は将軍慶喜にまわった。日生劇場の舞台は「勧進帳」で、富樫を演じた。雷蔵の科白廻しが、明晰な寿海のそれに似ていることに観客は驚き「さすが親子の縁し」と、讃えた。もはや、一生を脇役役者で過ごした育ての親・九団次を思い出す者は、一人もいなかった。雷蔵は、舞台では、眠狂四郎と違って、脇役出身の過去を払拭して、堂々たる座頭の貫禄を示したのである。
雷蔵は、にもかかわらず、新劇を目指す。自らプロデュースし、経済負担をかぶって、新劇団を結成しようとする。これは、人間国宝・寿海の養子という過去のしがらみを振り捨てたかったのではないかと思える。異常な情熱をあらわにして、岸田演劇賞を受けた地元の劇作家・人見嘉久彦(
大阪読売新聞社文化部勤務、現在は大阪芸術大学教授
)に、脚本を依頼する。人見の話によれば、その脚本は次のようなものでなければならなかった。
「人間の手では、どうしょうもない、あるおおきなものの力
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これを運命と呼んでもいいし、神と名づけても良ろしい。その力に翻弄される男の悲劇。たとえばマクベスのようなものを、書いてくれませんか。」
人見は、要望に応じて、シェークスピアの作品「マクベス」とギリシャ悲劇「オディプス王」をつきまぜて脚本「海の火焔樹」を書きあげる。脚本のできたのが、四十三年二月。雷蔵は直ちに、京都と東京で、七月の八日間、劇場の予約をする。主演は雷蔵。相手役に藤村志保。そのほか助演は、俳優座の永田靖、文学座の金内喜久男など、すべて新人ばかり。自身で出向いて出演を依頼した。劇団名を「テアトロ鏑矢」と決めた。六月、京都の寺町のお寺を借りて、稽古に入った。その第一日目。人見嘉久彦は、今なお、その時の雷蔵の言葉を忘れられない。
あすは、ちょっと来られへんかも、しれんねん。腹具合がどうも変やから、病院で検査してもらおう思てるからな。でも、明後日は時間通り、間違いなく来るわ。頼むで。遅刻せんといてや。
検査にだけ行った病院から、しかし雷蔵は帰れなかった。即時入院と決まったのである。肝臓癌であった。肝臓癌は、もはや手遅れであった。もちろん新劇団旗上げ公演は流れた。三カ月間の入院で、九月に退院。雷蔵回復と公表されて、眠狂四郎シリーズの『人肌蜘蛛』と『悪女狩り』の二本に出演したものの、殺陣のシーンは替え玉を使わねばならなかった。癌と知らされたのは雅子夫人だけであった。
翌四十四年の二月に再入院。制癌剤の劇しい副作用で頭髪が細くなって脱け、手足は針金のようになったという。また病院のテレビで、自分の出演した映画の放映を見ながら、大粒の涙を浮かべていたとも伝えられる。五カ月後の祇園祭の日、七月十七日午前八時二十分、雷蔵は死んだ。享年三十七歳。
最後の作品は、二月二十二日封切の『博徒一代・血祭り不動』。百五十三本目の映画であった。しかし、どうにか吹き替えなしで撮影できた本当の遺作は、百五十本目の作品『ひとり狼』である。ハードな股旅もので、その暗さ故に、数年保留されていたのを、雷蔵が無理に希望した作品であった。興行成績は思わしくなかったけれど、原作者の村上元三は、納得のいく作品と讃えた。今となっては、雷蔵の生きざまを象徴する、孤独な悲しい作品である。
雷蔵は、ついに孤独であった。養父寿海に親しまなかった。しかし寿海が昭和四十六年四月五日に死んだとき、喪主は太田光紀と発表された。雷蔵の残した三児のうちの第二子、長男である。寿海に何ひとつ子らしいことをしなかった雷蔵に代わって、子供が、寿海への親孝行をしてくれたのであった。(
浜畑幸雄 )
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