市川雷蔵負けん気物語
清閑寺 健
三人の母
彼は、昭和六年八月二十九日、京都市中京区西木屋町に生れた。表面は関西歌舞伎中堅所のわき役市川九団次の実子ということになっているが、じつは九団次の妻の兄弟の子で、彼が母の胎内にいる頃、実父が亡くなったので、子供のない九団次夫妻が可哀そうにおもって引きとって実子同様に育てあげた。これが後の雷蔵なのである・・・。
彼は何にも知らずに九団次の実子竹内嘉男として生い立った。養母のはなは情愛が深く、子供の育て方が上手だったので、彼は日増しに賢くなり、すこしの翳もない明るい子になった。
三つのとき室戸颱風による大風水害のため大阪にうつり、桃ケ丘小学校から天王寺中学にうつったが、成績はよくいつも一番か二番、特に国語と生物が得意だった。
(註:室戸颱風・むろとたいふう は、1934・昭和9年9月21日に高知県室戸岬付近に上陸し、京阪神地方を中心として甚大な被害をもたらした颱風。記録的な最低気圧・最大瞬間風速を観測し、高潮被害や強風による建物の倒壊被害によって約3000人の死者・行方不明者を出した。枕崎颱風・1945年、伊勢湾颱風・1959年と並んで昭和の三大颱風のひとつに数えられる。)
少年時代の彼は、俳優になろうなどと夢にも思ったことがない。僕はいまに医者か銀行員になろう。平凡だといわれてもいい。地味だが平和な暮しをしたい - そんな気持だった彼が、終戦後の昭和二十一年十一月、大阪歌舞伎座公演のとき「中山七里」の茶屋娘お花の役に出ないかという勧めを断りきれず、市川莚蔵を名乗って舞台に立った。これが彼の運命の扉だった。
しかし、歌舞伎の世界には門閥というものが厳存している。いい役者になろうとすればやはり名門で養われ、鍛えられねばならない - そこを九団次は考えた。
市川寿海は、関西歌舞伎の大立者でありながら子供に恵まれていない。
「もしもあの子を寿海さんが貰ってくださったら・・・」
こう願うのは、歌舞伎役者の世界を知っている親として当然のことだろう。九団次は二十五年の暮、名古屋、御園座の興行のとき、宿屋に寿海夫妻を訪れて、このことを頼みこんだ。
「え、養子に、貴君のお子さんを?」
寿海も、妻のラクも事の意外さにおどろいた。寿海ほどの役者であるから、養子の縁談は降るように来る。みんな、いい役者にしたいからだ、という。だが、寿海夫妻としてはその役者にさせるのがいやなのだ。
おもえば、寿海自身、今日の地位を築くまでには、言語に絶するほどの苦難の道を歩んで来た。
役者は寿海一代だけと考えていた。この気持に変りはなかったので、九団次から養子の話があっても、いい返事ができようはずがなかった。さりとて、無下に断わることもできない。
夫妻の脳裡に、無口でサバサバした坊ちゃん型(タイプ)の青年俳優がやっと思い出された。名古屋興行を前にして、一座の若い者が、朗読会をつくって脚本の朗読をやり、先輩の指導のもとに芝居の勉強会をやった。
そのとき雷蔵は「修善寺物語」の頼家をやったが、なかなかの出来栄えで、審査にあたった寿海が八十点をあたえ、一等となったのを思い出したのである。
さっそく松竹社長白井信太郎の意見を訊くと、
「雷蔵なら将来、望みがある」
と明るい話。それに彼は二十五年五月、武智鉄二氏の指導による関西実験劇場第二回公演「妹背山道行」に求女をやって好評を博したことを知った。
そんなわけで決定するまで五ヵ月もかかったが、定まると挙式は早かった。白井社長の仲人で養子縁組の式をあげたのは、二十六年の四月末である。
ところが、その直前の四月二十日、雷蔵はおどろくべき事実に直面したのである。中之島の家庭裁判所から呼出しがあったので、彼は何気なく出頭した。養子縁組のため親子双方とも呼ばれて別々に裁判官から事情を聴取されたのだ。係官が戸籍謄本を示した。
「貴方は、九団次さんの養子でしたね」
「えっ、養子?とんでもな。実の子でございます」
「いや、謄本にはこの通り養子ということになっている。よく見てごらん」
驚いて見なおすと、何年何月何日、誰誰から養子縁組をした、とちゃんと記してある。
雷蔵は息を呑んだ。そしてわが目を疑った。だがいくど見なおしても養子である。九団次の実子ではない。
「君は何も知らないのだ。気の毒だが、事実だけは知らせておく」
なだめるように云われた後、寿海の養子の事実についてあれこれ聴取されて後、彼は裁判所を出た。足が竦むようだった。四月の下旬で中之島公園の桜はすでに葉桜になりかけていた。その桜樹の下をトボトボと歩きながら、雷蔵は見もしらぬ瞼の母の姿を追った。(どうして自分の生んだ子を人にやる気になるのだろう)
そう思うと、生みの母の気持が情なくおもえてならなかった。と同時に、血をわけた子もおよばない愛情をそそいで十九になるまで育てあげてくれた九団次夫妻の心情が切なくおもえてならないのである。こうして彼は、正式に寿海夫妻の養子になった。
(寿海夫人の名は”ラク”が正しい。なぜ”裕子・ひろこ”とあるのだろうか?)
縁組が四月で、六月には八代目市川雷蔵の襲名、大阪歌舞伎座において「白浪五人男」の赤星十三郎で披露した。いい役者にしたいばかりにわが子を名門に養子にやった九団次夫妻は、その晴れ姿を、どんな思いで眺めたことか!
しかもその無上の歓びはやがて哀愁にかわる。養母はなが悪性の癌で京都府立病院に入院したのは、それから間もない七月のことだった。入院生活半年あまりの一月末、慌しい電話が歌舞伎座の楽屋にはいった。
「お母さんが危篤です。すぐ来るように」
「何っ、危篤?それはいけない!」
撥ねかえされるように電話を切った彼は、ムリに時間を作って、自動車を京都に飛ばせた。はなはまったくの臨終間近とみえ、もう口もきけなくなっていた。それでも、うつろの眼をすえて、まさぐるように彼の姿を見ながら
「おう、嘉男!よくまあ」
とでもいうような表情で、窪んだその双眼には涙がいっぱい!
「お母さん、しっかりして下さい」
彼はふるえる手をさしのべて、母の手をにぎったが、それは枯木のようにやせこけてしかもヒヤリとした感触!死は近い!(舞台さえ無かったら、毎日でも看護してあげられるのに・・・)
それをおもうと急に悲しさがこみあげて、扉をあけて廊下に出たとたん、おもわずワッと声をあげて男泣きしてしまった。俳優という職業の辛さを、このときぐらい彼はきびしく感じたことはない。
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