市川雷蔵負けん気物語
清閑寺 健
唯一の大目玉
雷蔵は、昨年の七月に映画界入りをした。父の寿海は、じつをいうと映画入りには不賛成だった。というのは二十一、二歳の彼は歌舞伎俳優として勉強盛り、修行盛りの年配だったからである。
しかし、商魂たくましい映画会社で、この未完成の大器を見のがしておこうはずがない。各映画会社から勧誘が殺到したが、永田雅一社長自ら乗りだして勧誘につとめ、せめて二、三本だけでも、ということなので本人も気持が動き、母も彼も意志を尊重するよう寿海を説いてくれたので、ついに大映入りが実現したのだった。
ここに微笑ましい挿話がある。彼が大映にはいるとまもなく、ある新聞記者がインテビューにやって来た。記者はいろいろな質問を発した末、
「すると雷蔵さんが映画入りをしたのは、結局、経済問題ですね」
彼は笑ってうなずいた。談話は多岐に亘ったが、幾日か後の新聞には、私の映画入りは役者としては食っていけないから、と大きく出た。その内容は東京の雑誌にも転載された。それから寿海夫人が、あっちこっちの席で奇妙なことを耳にした。
「雷蔵さんはハッキリしていますねぇ。役者では食っていけないからなどと云って」
「あらまあ、そんなこと云いましたか」
夫人はまさかと疑ったが、あとで新聞をみせられて、これはまずいと、寿海に告げた。
「何?役者では食っていけないって?とんでもないことを云ったものだ」
明らかに立腹の体だった。いうまでもなく寿海は関西歌舞伎俳優協会の長である。多くの役者の頭である手前、役者では食っていけないなどと云われてはその立場上、大いに困るのである。
偶々、夫妻で白井社長の邸にいくと、そのことが話題になった。白井社長は傍らにあった雑誌をとりあげて、
「おお、そのことならこの雑誌にも出ています。東京の大谷も読んで、これはいかん、本人に意見してくれと、わざわざ私に送ってよこしたんです。不用意な言葉がこうさせたのでしょうが、今後のこともありますから、雷蔵君に注意してやりましょう」
そこで雷蔵のところに電話をかけて、早速大阪に来てもらった。雷蔵は、ははア、あのことかと思ったが、悪びれずやって来た。白井社長を前にして寿海と夫人は交々、きついお目玉を浴びせかけた。このときばかりはさすが心臓の雷蔵も、すっかりまいって、
「すみません。これからはかならず注意いたしますから・・・」
と、あっさりあやまった、という。
筆者が雷蔵に会ってこのことを質すと、彼は頭をかいて、
「事実ですよ。養子にいって以来、お父さん、お母さんから私が貰った、たった一つのお叱言。しかも大目玉で・・・ハ、ハ、ハ、ハ」
と青年らしく笑うのだった。
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