NANKYO グランプリ 市川雷蔵の曲折と未来
ひとつの出発 |
なぜ歌舞伎を捨てたか |
彼が十五才で市川莚蔵と名乗って大阪歌舞伎の初舞台をふみ、二十六年六月十九才、名門市川寿海の養子になって八世市川雷蔵を襲名、それからたった三年で歌舞伎の世界をすてて映画にはいった動機は何だったんだろうとそのころは思ったものだった。二百年以上もつづいた雷蔵の名前をさらりと捨てた原因は、彼のすぐれた切れのいい頭脳が、大阪歌舞伎の世界の中では窒息しそうな気がしたのだろうか。この経緯はあとになって、なにかわかったような気がしたが。
二十九年の八月、大映で『花の白虎隊』にデビューしたときは、まだ正式に契約していなかった。この作品で勝新太郎もデビューしているが、このことは一種の因縁みたいでおもしろい。云うなれば、ここに“正則型”と“変則型”が同時に誕生したことになり、同時に大映としては、長谷川一夫、阪東好太郎、黒川弥太郎などの戦前派にかわって、何としてでも新人スターを創造しなければならなかった気運がはっきりわかる。つまり雷蔵は第一歩からスターになるための立場と修業が課せられたということになる。
ところでわたしは雷蔵の現在までの主演作品、百二十四本について考えると、まことに迷ってしまう。足掛け十三年間に、これほど際立って玉石混交のはなはだしい数多くの映画のどこを採りあげていいのか。なにしろ一年間に、最初の年こそ大映で三本、新東宝で美空ひばりと共演の『歌ごよみお夏清十郎』の一本を入れて四本だったが、翌三十年からは、たいてい一年に八本から九本、ひどいときには十二本、ひと月一本の割合でつくっている。結局年代順に、しかもわたしの好きな映画から、重点的に描いてゆく以外方法はないだろう。
29年9月京マチ子の『千姫』で二枚目雷蔵が秀頼を・・・
美空ひばりの相手役で『歌ごよみお夏清十郎』に