『王将』の伊藤大輔、『ぼんち』の市川雷蔵
日本映画の黄金時代を駆け抜け、 |
名画誕生の現場で半生を生きた生粋の映画人が |
大阪映画の名作、名優、名監督を語る |
大阪映画、全国を席巻す
日本映画の全盛期を最前線で駆け抜けた。巨匠と呼ばれた監督たちと仕事をし、数々の傑作誕生を促した。『悪名』など自らの企画で、ヒット作も世に出した。映画人冥利に尽きる人生を送ってきた鈴木晰也さん。八十歳半ばにして映画への情熱なお衰えず。関西映画界の生き字引といえば、この人のことである。
大阪との縁も深く、戦前の新興キネマ勤務時代に、朝日座で支配人を務めた。朝日座はもともと道頓堀五座のひとつに数えられた芝居小屋で、明治四十四年ごろから映画上映館にいちばんはやく切り替わった、いわば大阪映画のふるさとである。戦後は、現在の新歌舞伎座にあった大映支社などで勤務。映画人としての基礎を約九年間の大阪時代に培った。その後、大映京都撮影所で企画製作の腕をふるう。
現在は京都住まい。自宅のすぐ近くに溝口健二監督の家があった。「溝口先生は仕事になったら鬼でした。演技が気に入らんかったら役者を罵倒し、何十回でもやり直させる。それが伝説になっている。ところが仕事が終われば好々爺で、映画以外のことは案外とものを知らん。飛行機に乗る時、翼に近い窓際にさっさと座って、永田(雅一・大映社長)がここが安全だと教えてくれたと照れくさそうに言うので、あきれてしもうたことがあります」
大監督たちと身近に接していた鈴木さんでなければ聞けないエピソードだ。鈴木さんが先生と呼ぶ監督は溝口健二、衣笠貞之助、伊藤大輔の三人だけ。いずれも強烈な個性の持ち主だった。鈴木さんが大映で企画製作に携わっていたころ、この三人の大監督が大映にいた。
「大変でしたよ」と笑う顔に懐かしさが溢れる。
映画史とともに映画人生を歩いてきた目で、今回の特集テーマに「大阪映画」についてひとこと。
「大阪を舞台にしたり、大阪の人間を描いた大阪ものがいろいろ出てくるのは昭和三十年以後です。戦前派大阪ものを撮っても関西でしか受け入れられなかった。大阪はまだローカルに見られていたし、大阪弁も抵抗を持たれいたんです」
戦後生まれの大阪ものの初の全国ヒットは『王将』(1948年)である。以後、『夫婦善哉』(55年)、『浪花の恋の物語』(59年)、『ぼんち』(60年)、『悪名』(61年)と、大阪もののヒットが続く。
「そのうち僕が印象に残っているのは『王将』『ぼんち』『夫婦善哉』です。大阪映画はこの三本に尽きる」
『王将』『ぼんち』は鈴木さん自身がが関わった映画。思い出は尽きない。