『王将』にほれた伊藤監督、阪妻を口説く
伊藤大輔監督が阪東妻三郎を主演に『王将』を撮った時、大映に入社したばかりの鈴木さんは名監督と名優の映画に賭ける情熱を目の当たりした。
「あの映画はね、伊藤先生が北条秀司の戯曲を読んで坂田三吉の人間像にほれて阪妻を口説き、妻さんがそれに乗ってできたんです。白い腰巻き巻いたあの三吉のイメージは強烈やった。当時、阪妻といえば時代劇の大スターですよ。ふつうは三吉みたいな汚れ役は絶対にやりませんよ。けど『王将』はヒットした。あれで阪妻さんも自分は現代劇でもやっていけると自信を持ったと思います」
阪妻はすごい役者だったと鈴木さんは言う。一ヶ月ほどかけてセリフを全部頭に入れてからでないとセットに入らない。相手のセリフまで覚えている役者は他にいない。遊びは豪快。それでいて礼儀正しく子煩悩。大スターはいくつもの顔を持っていた。
片や伊藤監督は鈴木さんが知る限り、日本で最も学のある映画人だった。
「とにかくスタッフで一番ものを知ってるのが伊藤先生。掛軸が出てきたので、お見せしたら、その言葉は『和漢朗詠集』のここに書いてあると即答される。その場で答えられない難しい質問の時は、『三時間後にまた来なさい』と言われて、その時間に伺うと、関係資料をひと揃い並べて、すらすら完璧な解説をしてくださる。僕らはいろんなことを伊藤先生に習いました。先生の家もこの近所でしたが、すごい蔵書の量でした。蔵には新聞小説を切り抜いて表装したものも何十となく保存してある。本になって出ているから、そんなもの置いておかなくてもと思うけど、先生に言わせると、新聞小説には毎回挿し絵が描いてある。映画監督にはそれがいざという時に役に立つというんです。ロケハンの時、駅の売店で必ず絵葉書を買うのも先生らしくてね。絵葉書の裏に買った日付と、街道といったキーワードをメモする。将来、街道を撮るときに役立てるためです。そんな絵葉書がまた蔵に山ほどある。知識欲が常人とはけたはずれにすごい。将来もおそらくこんな人は出てこないでしょう。えらい人でした」
『王将』には、坂田三吉が「銀が泣いている」という名セリフをはく有名な場面がある、伊藤監督はセリフに合わせた盤面をつくるのに、当代一流の棋士だった升田幸三九段を呼んだ。升田幸三はその場でさらさらと棋譜をつくった。駒が並んだ盤面を見て伊藤監督が「なるほど」とうなずいた。
「さすがやなあ、と思った。僕はそのときに伊藤、升田という二人の名人のやりとりを目の前で見たんやね」
名監督の映画はそのようにしてつくられたのだ。