日本映画好敵手論

中村錦之助・市川雷蔵


       

 錦之助に対比すると、市川雷蔵は、甚だ対照的な存在である。年齢も二十八歳で、ほぼ同年だが、一言でいうと、受動的錦之助にくらべ、彼は能動的である。『炎上』の企画を会社に持ちこんだのは、彼だときいている。最近では、増村保造と組んで、『好色一代男』の企画を推進し、また、山崎豊子の『ぼんち』を市川崑の手で映画化しようと懸命である。彼も、錦之助に劣らず「負けん気」である。だが、この闘志は、もちろん、錦之助とともに天性ではあるが、そこに後天的な要素が多い。

 彼は、大映のくれた略伝によると、市川九団次の実子とあるが、実はこの人の弟の子である。初舞台は六歳のときときいた記憶があるが、公的には、昭和二十一年、十六歳のとき、市川莚蔵の芸名で、大阪歌舞伎座で「中山七里」の茶屋の娘お花の役で、デビューした。錦之助の父が、中村時蔵であったに反し、たとえ市川九団次のイキがかかっていたにせよ、彼の青春時代は、決して恵まれたものではなかった。のちに、武智鉄二の関西実験劇場に入ったが、中村扇雀や中村鶴之助などという名門の御曹子の影にかくれて、彼は、身分の辛さを骨にしみて味わったらしい。「今にみておれ」という言葉が、幾度も脳裡にひらめいたそうだ。彼の負けん気は、いってみれば、この逆境が、天性をさらにきびしくきたえあげたものである。

 昭和二十六年故あって、市川寿海の養子となり、そこで雷蔵を襲名、翌年大映と契約して映画界に入った。第一回作品は、『花の白虎隊』である。錦之助が東映に入って早々にブームを形成したに反し、彼の映画界の歩みは、そう目ざましいものではなかった。この男がはたして大映の時代劇を背負って立つ太い柱になれるかどうか疑った人が多かった。しかし幸いにここでの彼の立場は、追う立場で、いわばエース投手の長谷川一夫に代って、いつかマウンドにのぼる二軍の投手だった。会社も彼の売出しには、骨を折って、まだ無名の彼のために主演映画を連続的に企画して、その犠牲を惜しまなかった。東映の若手俳優の排出をみて、それにあたる若い時代劇スターのない大映としては、随分思い切ったギャンブルだったのだが、この賭けが成功したのである。向う意気の強い彼でも、さすがにこの時代の彼を育てた永田社長と酒井京撮所長には、心から感謝している。

註:正しくは、1954(昭和29)年8月25日公開 大映作品「花の白虎隊」、シナリオ八尋不二、監督田坂勝彦で映画デビュー同12月大映映画株式会社と専属契約を結び、映画俳優となる。