三十七年の夢
市川雷蔵を偲びつつ
あの人の墓をわたしは詣でたことがない。墓とは、つづまるところ死であって、あのひとの死と改めて向き合い、心に刻みつけられるのが辛いから。
以前、そうした小文を書いたことがあって、いまもそれは変っていないけれど、さすがに歳月がそんな気分をうすめてくれているようだ。
あのひと、市川雷蔵が世を去ってから三十年になったという。あと七年すると、あのひとが世に在った生と同じということになる。三十年も閲したというのに、その面影は、いまになっても色褪せることなく世に迎えられている。
二十二歳の映画初登場から死に至る十五年間に、その作品が百五十八篇に及ぶというのだから、いかに映画全盛期だったとはいえ、やはりおどろくほかはない。
出生時には秘められたことが多かったらしいけれど、十代で歌舞伎の舞台に立ち、大名代の養子となって、さらに二十歳そこそこで映画の人気スターになったのだから、不幸な生涯とはいえない。むしろ稀な幸運に恵まれたひとだといえるだろう。
けれど、映像となった雷蔵には、なぜか不幸の翳が色濃くつきまとって離れない。素顔は決してそうでないのに、明朗時代劇を演じていても。どこか寂しくて、別の顔がのぞいたりする。不幸が似合う。ふしぎな役者だった。
年譜によれば、昭和六(1931)年京都堀川丸太町で出生、とある。母の名は富久といった。だが、生後六カ月で、ある事情によって市川九団次の養子となり、大阪育ちとなる。十五歳で大阪歌舞伎座初舞台、芸名を市川莚蔵といった。やがて昭和二十六年(1951)四月、市川寿海の養子となり、太田吉哉と名を改める。さらに同年六月、八代目市川雷蔵を襲名披露。のちに映画に転身。大映京都撮影所と専属契約を結び、映画初出演は昭和二十九年(1954)製作の『花の白虎隊』である。
翌年には早くも溝口健二監督の大作『新平家物語』の主役。平清盛を射止め、以後数多くの作品があって、つねに上り坂だった。出演作『朱雀門』がゴールデン・ハーベスト賞を受賞すると、つづいて『炎上』『弁天小僧』によってキネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン主演男優賞、NHK優秀主演男優賞、ベネチア国際映画祭「チネマ・ヌボー男優演技賞」と、かがやかしい記録になるのだが、ときに雷蔵、とし二十八歳。
一方、股旅ものだの、明朗時代劇だの、異色の娯楽時代劇、いわゆる文芸作品だのが入り乱れて『沓掛時次郎』『中山七里』、「濡れ髪」シリーズ、『切られ与三郎』『歌行燈』『薄桜記』『破戒』『ぼんち』『大菩薩峠』『斬る』『忍びの者』など。