けれど、そのとし昭和三十七年(1962)まで雷蔵の作品群を、実をいうと、同じ大映に在りながら、わたしはほとんど観ていなかった。
五年前の昭和三十二年に映画脚本家になってから、わたしは大映東京撮影所と石原裕次郎時代の日活撮影所の双方で仕事をつづけていた。そのころ、東京と京都は全くといっていいほど交流がなかった。もちろん、大家というひとたちは別だけれど。そして、現実に製作されている映画作品と、ちびのころから観つづけた内外映画との落差から、なんとなく情熱を失いかけていた。じぶんが映画の世界にとびこんで来たのは間違いだったかもしれぬと疑いはじめていた。
そういうわたしが、はじめて雷蔵とめぐりあったのは、昭和三十七年の秋。奇しくも、三十七が雷蔵の死齢と重なるのだが、なんの前ぶれもなく、とつぜん京都撮影所に呼ばれて、「時代劇を書いてみる気はあるか」といわれた。前にも述べたように脚本の書き手の交流などなかったkら、まさに寝耳に水だった。わたしはさんざんだだをこね、「生意気なことばかり言う」と叱られ、ついに子母澤寛の原作を押しつけられた。『新選組始末記』というもので、不勉強にもわたしは、それを小説だとばかりおもっていたから、小説ならば物語がある、なんとかなるだろう、ええいままよ、と引受けることになって、そのころ京都下河原の小路にあった川口松太郎さんの家を宿としてあたえられた。川口松太郎さんとの縁はいろいろあるのだけれど、それはまた別の話なので、ここでは書かない。
とにかく『新選組始末記』が小説ではなくて、新選組についての聞書きなので、びっくりした。当然、物語はつくらなければならない。途方にくれる一方、「しめた」ともおもった。どこまで娯楽時代劇が書けるか。ひとつおもいきったことをやってやろう。どのみち会社側は、腕試しの小品というつもりなんだろう。−そうおもって、ほとんど無名の人物を囲んだ群像劇に仕立てたのである。
もちろん市川雷蔵主演などではなかった。それがどうして雷蔵作品に化けたのか。そのゆくたてを語るのは、繰返しになっていまさらいささか気恥しいから、御かんべん。
ともあれ、それが縁となって、以後、なかなか東京へ返してもらえぬほどに雷蔵作品がつづいて、ときには勝新太郎が割り込んできたりして、時代劇の仕事ばかり多くなってしまい、東京撮影所から苦情が出る有様になった。
だが、映画界の状態は、そのころから急速にわるくなっていった。それでも雷蔵と勝の二本立はいつも興行として強かったから、二人ともずいぶん身体を酷使したようだ。