雷蔵君が昭和二十九年八月封切った『花の白虎隊』で映画界にデビューするまでには、次のようないきさつがありました。

 彼を映画界へ引き入れる事に努力したのは、私なのですが、その私が彼を知ってから映画界に、紹介するまでには、約一年の歳月を費やしたのです。

 すなわち『花の白虎隊』をさかのぼる一年前、市川寿海の御曹子であり、当時、若手歌舞伎俳優として将来を嘱目されたいた彼の姿を、京都南座の舞台で初めて見た私は、彼こそ青年歌舞伎役者の中で、最も映画的な人だという印象を強く受けました。しかし、私はすぐに彼を映画界に引き入れるという様な余り性急な工作をとらないで、まず人を介して、しばしば彼と会う機会を作りました。

 というのは、私は常々、無責任に人の運命を処理してはいけないという信条を持っておりましたし、今もこの信条に変りはありませんが、雷蔵君の場合でも、私が軽々と彼を映画界に引き入れても、若しも不幸にして、彼が映画に不向だという結論が出た場合、折角舞台でこれから伸びようとしていた一人の有望な青年の前途を傷つけるであろう事を、まず恐れたからです。

 そこで私は、時々雷蔵君とひそかに逢って話し合いながら、彼の容貌、表情、声、物の考え方といったものをいろいろの角度からつぶさに検討していったのでした。そしてその間、雷蔵君も又、映画へ自分が入ることの適不適を、彼なりに真剣かつ慎重に考えていたようです。

 この様にして、私がこの青年なれば、間違いなく将来時代劇スターとして大成するという確信を持つまで、スローテンポといえばいい得るかも知れないところの、一年の時日を要したわけです。私はこの決心がつくとすぐ松竹の演劇部側と交渉を始めましたが、松竹の方でもそれまで嘱望していた人間であり、かつそれが大映から望まれて来たとなると、一層彼に注目するようになり、その間、松竹の引き留め策をはじめ、いろいろのいざこざがありましたが、結局、彼の熱意と私の情熱とが、遂に松竹の奥山重役の了解を得る結果となって、彼を『花の白虎隊』に出演させるところまで漕ぎつけたのでした。