その人の光と影

死んだ、という実感が、どうしても、わいてこないのである。テレビは、始終、市川雷蔵主演の古い映画を放映している、その気にさえなれば、私たちは雷ちゃんの颯爽とした美剣士姿を、いつでも見ることができるのだ。

テレビの中の市川雷蔵には、死の翳りなど、少しも、ない。茶の間むきの、まのびのしたドラマや、ヤクタイもないショウ番組の間にはさまると、雷蔵主演のどんなつまらない旧作にも相当な迫力があり、氏の肉体は、生き生きと、光り輝いてみえる。

結婚式や受賞祝いのパーティ等、陽気な集いにはいそいそと出かけていくくせに、臆病者の私は、重い病気の人を見舞いに行くことがどうしてもできない。おそろしいのである。つらいのである。雷ちゃんが最初に入院した1968年の夏、単なる胃腸疾患ときいていた私は、折をみて病院を訪ねようと気軽に考えていたが、その矢先、あるジャーナリストが、「病気は、どうもガンらしい」と私にいい、とたんに私は、めまいを覚え、見舞いにいく力を、失った。その年の秋、元気に退院して、正月映画の撮影に入るという記事をスポーツ新聞の芸能欄で読んだとき、あるジャーナリストがいっていたことは、軽薄な臆測にすぎなかったのかと、私は内心ホッとし、同時に、無責任な情報にまどわされて、見舞いにいかなかったおのれを恥じた。

立てつづけに二本、正月映画に主演したあと、ふたたび入院したときいて、ジャーナリストの言葉が、不吉なお告げのように、あらためて、よみがえってきた。私は市川雷蔵の最後の仕事となった二本の映画を見そこなったが、たまたま、見た人たちは、異口同音に、雷蔵に精気がまったくなかったと、語っていた。癌細胞は、氏の全身を少しずつ食い荒らし、氏はおそらく、精神力だけで、カメラと対峙していたのだと、思われる。

そんなわけで、私は再度の入院の折にも、見舞いにいっていない。やがて死が雷ちゃんをすっぽりとおしつつんだとき、すでに混濁した意識の中から、氏は幾度も幾度も、うわ言のように、自分の死顔は誰にも見せないでくれと、懇願したという。

最後の作品も観ていないし、ついに一度も見舞いにいかなかった私には、雷ちゃんの死に顔なんて、到底、想像がつかない。私は、元気だった頃の氏のイメージを、そっくりそのまま、保存している。ふだんは、スタアという感じがまるでしない、リゴリズムのかたまりみたいな、明晰な口調でテキパキと話す優秀な商社マンのような雷ちゃん。スクリーンに登場すると、驚くべき変貌をとげ、明るさのなかに、虚無と一抹の哀愁をたたえ雄々しく、美しい青年スタア、市川雷蔵。

だから私は、死んでからもう一年も経つというのに、今だに、ずっと以前のように、深夜、突然、電話のベルがなり、エボナイトにあけられた黒い穴の奥底から、

「雷蔵です、仕事中ですか?昨夜上京してきて、今、六本木なのやけど、気晴しに、飲みにでてきませんか?」

と、雷ちゃんの凛々しい声が、きこえてくるような気がしてならないのだ。

仕事をしたのは、1961年の「好色一代男」(増村保造監督)だけである。その作品のアシスタント・プロデューサーだった藤井浩明氏と一緒に、大映京都撮影所で、はじめて、氏と会った。私は、学生時代、かかさず観にいっていたいわゆる武智歌舞伎以来の、市川雷蔵のファンであった。映画入りした雷蔵が主演した市川崑監督の「炎上」や「ぼんち」を観てから、私はますます、氏のファンになっていた。スタアという代物は、大抵の場合、スクリーンやステージでどんなに素晴しくても、現物に接すると、たちまち幻滅することに相場がきまっている。私は、大映京都の企画部のソファに坐り雷ちゃんが現われるまでのわずかな間、かすかな不安を感じていた。

そんな杞憂は、すぐさま消えた。スタアに共通な、やわらかいあいまいな微笑の背後に隠された傲慢、いつも自分の役の重さだけを考えている空虚な目、それらは、氏にはつゆほども見出されず、私は更に一層、氏が好きになったのである。