映画にほれて
聞き書き 田中徳三監督
私と映画との出会いは小学生時代です。当時、大阪・船場の自宅近くに「御霊クラブ」という映画館があって、しょっちゅう通っていました。親に内証です。(切符の)もぎりのおじさんと顔見知りになり、「おっちゃん入れて」と声をかけると、いつもただで見せてくれました。昭和初期のことです。
当時、市川百之助(1906-78)が活躍していて、僕らは“ももちゃん”と呼んでいました。『険難』といったかな、立ち回りの場面が全体の三分の二を占める有名なシャシンがあって、とても面白かったのを覚えています。そのころの活動写真は股旅ものが多かった。やくざ者が諸国を旅して歩く、義理と人情の物語です。筋はまあ、どれも似たりよったり。 1961(昭和36)年に撮った『鯉名の銀平』(市川雷蔵主演)は、私としては数少ない股旅ものの一本です。長谷川伸原作の古典的作品で、長谷川一夫さん主演でも撮っています。サイレント時代から繰り返し作られ、私の作品を見にきた人の多くも、ストーリーを知っていたのではないでしょうか。 股旅ものに求められるのは粋です。歩くだけでもさまになっていないとだめです。このころ(1960年代)には、既に股旅ものは廃れ、役をこなせる俳優も少なくなっていました。今、この役を演じられる俳優はいないでしょう。その点、雷ちゃんはぴったりでした。 <菓子屋の娘お市(中村玉緒)を巡る、船大工の銀平(雷蔵)と卯之吉(成田純一郎)の友情と相克がテーマ。白黒、80分> 脚本は犬塚稔さん。監督から転じた日本映画界の巨匠、大先輩です。最近、久々に読み直しましたが、「号外」のせいで、すごくぶ厚くなっています。忘れていましたが、犬塚さんに何度も書き替えをお願いしたのでしょう。 <「号外」は、手直ししたせりふを印刷した紙片。脚本をすべて作り直すと時間も費用もかかるため、必要な部分だけ印刷し、あとから貼り付ける> 完成後の試写会で、吉村公三郎監督が「おい、おれにも見せてくれ」と室内に入ってきました。助監督として何本もついた先輩です。吉村さんは「最後の(雷ちゃんが)ひっくくられて行く、あれがええやないか」とほめてくれました。卯之助の罪をかぶり、捕まった雷ちゃんが目明しに引かれていく場面です。縄を打たれ、涙を浮かべて歩く雷ちゃんの上半身を、移動しながらとらえました。そこがよかったのかな。この作品を好きや、と言ってくれる雷蔵ファンも多いんですよ。 私はこの作品のころから、名実共に監督として一本立ちしました。会社と専属契約を結び、一本いくらのギャラをもらえるようになったのです。それまでの作品も「監督・田中徳三」となってはいますが、社内での身分は助監督のままでした。一本撮っても、ささやかな手当てしかもらえなかった。 会社から「そろそろ専属にならんか」といわれ、応じたのですが、精神的にはきつくなった。契約は一本単位。おもろなかったら、次は撮らせてくれないし、今さら助監督にも戻れない。どの作品も背水の陣でした。 |