映画にほれて

聞き書き 田中徳三監督

 

     

 田中監督は11月23日、京都市の“朝日シネマ”で開かれた俳優、市川雷蔵と宮川一夫カメラマン(今年八月、91歳で死去)をしのぶ座談会に出席した。11月20日〜今月3日ま、雷蔵の代表作を21本を日替わりで上映する“没後30年特別企画”(RAIZO 1999)の一環。座談会の日は田中監督の『赤い手裏剣』(65年)の上映に先立ち、美術監督の内藤昭さん、元大映助監督の豊島啓さんとともに、熱っぽく語り合った。二回に分けて紹介する。

 豊島さん(司会): 『赤い手裏剣』はどのようにして作られたのでしょう。

 田中監督: 西部劇みたいにやろうと、手探りだったような気がします。(“眠狂四郎”などでの)雷ちゃんのイメージとは違います。でも、よく覚えていないんですよ、三十年以上も前ですから、撮影所の試写で見て、京都の映画館で一回見たっきり。だから、今日は楽しみにしています。

 豊島さん: 雷蔵さんの思い出を軽くお願いします。

 田中監督: 雷ちゃんの思い出話といいますと、いっぱいあります。歌舞伎界から、海のものとも山のものともわからん映画界に来た。歌舞伎界に残っていたら市川寿海の子としてある程度までいけると約束されていたのに、未知の世界に思い切って飛び込んだんです。

 第一作で私はチーフ助監督でした。彼が映画に入った時からの付き合いです。亡くなるまで“雷ちゃん”“徳さん”の仲だった。思い出はたくさんあるので、軽くといわれても・・・。

 豊島さん: 雷蔵さんの作品は何本ぐらい。

 田中監督: よく覚えていません。ただ、『手裏剣』はちょっと異色作です。はっきりいって、市川雷蔵の守備範囲ではなくて、どちらかといえば、勝新太郎でやったほうがよかったかな、と思っています。でも雷ちゃんらしく、きちっとやってくれました。

 内藤さん: 記憶に残っているのは『新・平家物語』(55年)です。私が助手時代の作品で(雷蔵は)溝口(健二)監督に本格的にしぼられました。