若旦那

(おせきさん、陰の人達が見た横顔参照)

 若旦那が大映に入社した当時は、祗園に近い安井の旅館住いで、撮影所への往き来は、東映前を通るバスでかよっていました。バスを待っているときなど、そそっかしい私はよく人間間違いをするので、「あんたはほんまにそそっかしいなァ、こっちの方が恥ずかしいになるわ、僕のそばに寄らんといてんか」とよくいわれました。後々になって、そのときの人が用事で見えたとき、「坊ちゃん、あの人誰ですか」とたずねると、「あの人は東映の誰々さんや、あんたがバスのところで間違えた人やないの」といわれたときには記憶力のよさにびっくりしました。デビュー作「花の白虎隊」の撮影の初日は、二条城ロケでしたが、歌舞伎そのままのような芝居をされていたので、森本さんと「坊ちゃん、えらい芝居しやはるね、うまいことこの映画は終わるやろか」と心配したものでしたが、無事に完成して好評だったのでほっとしたものです。この後、私が足を痛めて一か月ほど休んだとき、森本さんを見舞いによこされて、一か月分の給料やら治療代やらまでいただいたときは、ほんとにありがたく思いました。

 「美男剣法」のとき、旅館ぐらしもあきあきしたので、どこか家がないものかと話していたら、共演中の嵯峨三智子さんが、「坊ちゃん、私の家を売ってあげてもええよ」といってくださって、話はとんとん拍子にまとまり、大将軍にある彼女の家(京都市北区大将軍西町31)へ転居することになりました。ところが、お手伝いさんがなかなか見つからず、通いだった私に、「おせきさん、あんたすまんけど女中さんが見つかるまで、住み込んでくれへんか、御飯ぐらい炊けるやろ」「そら歌舞伎のとき自分の食べるくらいはしてましたけど、坊ちゃんのを作る自信はありませんわ」「かまへん、おかずは何でも食べる。」そんな具合でとうとう住み込むはめになり、男三人のやもめ暮しが始まりました。

 料理といっても何をしていいのか見当がつかず、御飯は真っ黒にこがす、おかずは辛かったり、水臭かったり、それでも辛抱して何もいわず召し上がってくれました。そのうちに料理のネタ切れになり、思案にくれていましたが、いい事を思いつきました。鍋ものだったら一つ一つ作らなくてもいいし、簡単だと思い、一週間つづけて鍋料理にしました。三、四日だまって食べておられましたが、いかに辛抱強い若旦那もとうとう我慢ができなくなったのでしょう。一週間目になって、「おせきさん、毎日毎日鍋料理ばっかりで、あきてしもうたやないの、たまには別のおかずをはさむようにしてんか」といわれました。私はお手伝いさんやあるまいしと、むかむかしてきて、「もう何を作ってええのかわかりませんわ」といってしまいました。すまないと思いながら、きつい言葉が出てしまい、後悔したことがありました。それから間もなく福山さん(坊ちゃんの床山さん、かつらと雷蔵さん参照)の娘さんが料理の本を沢山持ってきてくださって、暇なときなど台所を手伝ってもらったりしたので、おかげで見かけだけはきれいにできるようになりましたが、相変わらず味の方はうまくいかなくて、「あんた、御飯はほんまにうまいこと炊くなあ、そやけど、おかずを作るのはいつまでたっても下手や」といわれたものです。