名セリフにも苦心

伊藤 三宅(周太郎)さんの劇評かなにかに書いてあったんですが、橘屋(羽左衛門)は長い間“しがねえ恋が情の仇・・・”と云っていたそうです。

寿海 ええ、が、と、のではちがいますね。

伊藤 それを三宅さんが、橘屋は若い頃からそう云っておるんだけれども文法上は間違いで“しがねえ恋の情が仇”がほんとうだ。なにか歌舞伎の約束があるのだろうかと、ふともらされたら、翌日から、今の“しがねえ恋の情が仇”と改められたので、橘屋という人は、ずぼらどころの人じゃないと感心せられたそうですね。

寿海 うっかりそう云ってたんですね。

民門 三宅さん、その話を一生の三大感激の中に入れておられますね。

寿海 ずぼらな所もありますが、反面、ひじょうに神経の過敏な人でしたね。

雷蔵 あれはどうして“慣れた時代の源氏店”というんです、玄冶店とはいいませんね。

伊藤 幕府のお膝元、江戸の出来事を上演するのは、当時御法度なんだ。だから出来事はみんな鎌倉時代になってるでしょう。だから当時の観客は、鎌倉といえば江戸とわかっていた。ましてモデルになった女の囲われていたのが、武鑑にものっている岡本玄冶というれっきとした御殿医の持っていた長屋なんだよ。

雷蔵 いいとこですね、日本橋は人形町。

寿海 地代の高い所ですよ。(笑)私が行った時も、ちょっと粋なお妾さんなどが住んでいました。

伊藤 それと芸人衆などもいたんですね。

寿海 そういうわけで“鎌倉の谷七郷は喰いつめて”と鎌倉にしてるんですよ。

伊藤 舞台通りにやるんでも、映画では江戸にしてるから、そのセリフは云えないんだよ。

民門 するとそこはどうなるんです。

雷蔵 途中でうまいことなってます。(笑)“しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのをどう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年越し、江戸の親には勘当うけ、拠所なく鎌倉の、谷七郷は喰いつめても、面へ受けたる看板の、疵が勿怪の幸いに、切られ与三と異名を取り・・・”がね、江戸の親にはからがなくて、“あの木更津の一件で、こう見や、惣身へかけて三十四ケ所。向う疵の、斬られのと・・・”となっているんです。

寿海 ええ、うまいぐあいになってました。

民門 いや、伊藤先生は昔からそういうことがうまいんだ。(笑)