小山内氏の思い出

民門 伊藤先生、寿海さんとはずっと御存知なんですか。

伊藤 寿海さんの方は御存知ないけれども私は、小山内(薫)先生のもとにいた関係で高島屋(二世左団次)さんお所へ出入りしてましたから、ずっと存じあげているんだ。

寿海 そうですか。

伊藤 ですから、小雀座の旗挙げ興行で、風の神の舞踊がございましたでしょう、あれなどはっきりとおぼえております。

雷蔵 形にもなっとらん時やな。(笑)

伊藤 もう四十年も前の話ですよ。

民門 雷蔵さん先代の左団次さんは知っているでしょう。

雷蔵 これは知ってます。顔見世を見に行って、子供心にしんきくさい芝居を見せられて居眠りしてしまいましたからね。

民門 何を見はりました。

雷蔵 「大石最後の日」です。その狂言のあとに、猿之助さんの「二人三番叟」があって、これは子供でも面白いから、これを見たくていってながら眠ってしまったんです。

伊藤 小山内先生の話が出ると、自由劇場の話になりますが、「どん底」当時は「夜の宿」と申しておりましたが、稽古の時など、きびしかったそうですね。

寿海 ええ、たいへんでした。

伊藤 大学を出てすぐの頃でしょう、あまりにきびしいので、楽屋を出たとたんに役者さんに殴られるかもしれんと、護衛をつけたというんだから。長靴で蹴りとばすところまでやられたらしい。

寿海 「どん底」は有楽座で第一回目の公演(明治43)をやり、小山内さんがモスクワへ行ってこられてから、こんどは役者にあわせて配役をかえて再演をしたんですが、向うで本物を見てこられたのに、演出がほとんど変らないんですよ。それでびっくりしました。

伊藤 第一回目の時は、高島屋さんがペペルで、寿海さんはサチンでしたね。

寿海 そうです。二度目は、高島屋さんがサチンに、私は男爵にまわりました。

伊藤 亡くなった松蔦さんがナターシャだった。女形を使っての新劇だからね。(笑)

寿海 女優さんは使っても、たいした役ではなく、やはり女形が主でした。それに当時かつらのいいのがなかったので、女形以外は地頭でしたね。その時の稽古が激しかったものですから、私のやらなかった役でもよく覚えているんですよ。この間、モスクワ芸術座が来た時、稽古を抜けて、二幕だけ見たんです。見ておりますと、言葉はわからなくとも、よくわかるんです。面白いところではやはり笑ってしまうんです。まわりの人は、キツとなって真面目な顔で見てるんですがね。その時、つくづく小山内先生って偉いなあと思いましたね。

伊藤 こわいようなもんですね。

寿海 なんにもしゃべらない仕出しの役者さんまでえらく叱りましたからね。モスクワ芸術座を見ていますと、その仕出しにいたるまで、実に立派なんです、ちっとも芝居のじゃまにならないで、ちゃんと芝居をしてるんです。小山内先生もこのことはひじょうにやかましく云われましたね。それと、小山内先生ってのは、居眠りの上手な人ですね。稽古をしている時でも。台本をかかえて居眠りしているんです。眠ってんだからいいだろうと思っていると、君、あそこ違うよって云うんです。

伊藤 居眠りは達人なんだ。電車の吊革にぶらさがって、原書を読みながらでも居眠りをするんです。一分でも暇があると眠ってましたね。夜、ほとんど寝てらっしゃらないから。

雷蔵 なぜ寝ないんです。

伊藤 勉強で、劇団を経営してらしたからそれが忙しくて、夜しか勉強する時間がないんだな。