1954年のデビュー以来、雷蔵には現代もの、文芸もの、王朝もの等々といった明確ではないながらも、多くのシリーズがあった。しかし、1960年代後半になると、それは一層顕著な特徴となり、他に例を見ないほどの“シリーズ俳優”となった。
これは、映画の興行成績が漸減していく中で、なんとか成績を維持しようとする苦肉の策であった。それぞれのシリーズの中に、いろいろな雷蔵の顔を見ることもできるし、共演者の変遷をたどる面白さもあろう。(
アサヒグラフ決定版:市川雷蔵より
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60年代の大映の屋台骨を支えた勝新太郎と雷蔵のシリーズ映画の主なものは61〜63年にかけて生まれ、トップを切ったのは勝の『悪名』で、61年9月の封切り。
ついで同じく勝の『座頭市物語』が62年4月に封切られ、この年の7月には“黒”シリーズの第1作『黒の試走車』も登場。これに続いて『忍びの者』がお目見得した。
雷蔵の二つ目のシリーズ「眠狂四郎」の第1作『眠狂四郎殺法帖』が封切られたのは63年11月、この時点から勝、雷蔵の大車輪の活躍が始まり、「忍びの者」は計8作、「眠狂四郎」は12作までつくられた。その後65〜66年に勝は「兵隊やくざ」、雷蔵は「若親分」と「陸軍中野学校」をシリーズものに加えたが、雷蔵は69年7月17日、ガンのため37歳で急逝。大映は彼らの奮闘のかいなく71年末倒産した。
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