若親分シリーズ雑感
海軍士官とやくざの使い分け
時代劇スターの中では最もインテリジェンスがあり、容姿もキリッとしている市川雷蔵を使って、もと海軍士官のやくざをというもは、なかなかうまい企画だった。ある場面では海軍士官どののサッソウたるところを見せ、つぎのシーンでは派手な刺青のやくざ姿を披露に及ぶ。その変わり身が一人二役的なサービスになるというのがミソ。
海軍士官・南条武はおやじが闇討ちで殺されたと知るや、前途ある身を放棄し、親の跡目を継ぐ。いくら明治末期とはいえ海軍士官からやくざに転身して仇討ちをするというのは、いかにも古すぎる。しかも、その転身の理由が、“俺の体にはやくざの血が流れているんだ”という以外語られないのでは、底が浅い。まあしかし、そんなセンサクは無用というべきだろう。要は“海軍仕込みの腕と度胸”を発揮するための道具立てなのだから・・・。
彼は“日活や東映のやくざものとは違った味を出すよう工夫をこらさなくては・・・”と、頭を角刈りにし、衣裳も自分で注文する気の入れようだった。そして“ともかくスカッとしたきれいな侠客で、しかも動きのある若親分ぶりをお見せします”と語っていたが、確かに期待どおりの出来ばえだった。
やくざをやらせては天下一品という鶴田浩二には、やくざの悲哀が体臭みたいににじんでいる。まっとうな世間からハミ出たくずれた感じがするのだが、雷蔵は清潔すぎて、行儀がよすぎて本当はやくざに適さない。それがこの主人公のように、もと海軍士官ということで、いかにも優等生的な折り目正しいやくざが生れたわけだ。
若親分は親の仇の新興やくざを叩っ斬って入獄し、大正天皇の御大典で六年ぶりに出獄する。これが第二作のはじまりだ。帰ってみれば南条組は落ち目になり、新興やくざの中新門組が政治家と結んで悪事のし放題である。しかし彼はやくざ廃業を宣言、口入稼業をやるが、中新門の妨害に会う。そのうちもと同期生だった海軍の若手連中が、海軍上層部の汚職を粛清しようとしているのを知り、彼らに代わってその中心人物である例の汚職政治家を斬るのである。ここで海軍仕官の扮装になるのが見せ場。目先は変わっているが、ずいぶんいい加減な話だ。しかしそんな固苦しいことを抜きにすれば、悪党を相手にニトログリセリンを使っておどかしたり、陸戦隊バリの作戦で、僅かの人数で多数の敵をやっつける場面などは楽しめる。
かくして海軍の仲間の手で大陸に逃亡した南条武が、三度登場するのは、独立運動の騒ぎにまきこまれた蒙古の姫を助けて日本へ戻ってから。陸軍の過激派と対決したり、外国の悪徳商人と結んで、阿片密売や総会荒らしなど、アコギなことをする新興やくざをたった一人でやっつけるというもの。ここでも、友人の服を借りて陸軍に乗り込み、パッと制服をぬいで刺青を見せるという大変派手な芝居をする。さしずめ双肌脱いで大見得を切る遠山の金さんといったところか。この第三作『若親分喧嘩状』の一対何十かの決闘も、倉庫の中を利用してなかなか理詰めな戦いであり、東映あたりの単身殴り込みよりは納得がいく。
『若親分シリーズ『は、チョンマゲをつけていないことによって現代を意識させ、反面、ダンビラ揮う伊達男礼賛という形で時代劇仕立てにもなっている。これは東映や日活のやくざ映画に共通するものだが、『若親分』の場合、海軍という権威が背後にあり、それを時に利用するところに、ご都合主義と、毛色の変わった面とが同居する。しかも東映などのやくざ映画がもっぱら義理人情、男の意地を主題にしているのに対し、政治とか社会悪と対決する。この点だけでいえば、狙う次元が高いともいえるが、テロリズムを肯定することで、弊害は大きい。政治や汚職をドラマの中にもちこむことが社会的広がりと勘違いしているのではないか。
“俺はやくざだ。君たち将来のある者の身を誤らせたくない”といって汚職政治家をぶった斬る南条は、友情に篤い、憂国の志士みたいに描かれているが、その行動はかっての右翼テロと同じだ。やくざ同士の出入りならば、まだクズの殺し合いだといっていられるが、テロは否定すべきだろう。それと、三作とも善いやくざ対悪いやくざ、仁義を守る伝統やくざ対新興やくざと、図式化されているのも気になる。
雷蔵やくざは確かに世のために悪い野郎を叩っ斬ったが、なんの反省のニガっぽさもなく、大手をふってお天道さまの下を歩いているようで感心しない。()
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