若親分シリーズ(65/3〜67/12)


 東映を始めとする任侠映画ブームに便乗して製作された市川雷蔵主演による大映初の仁侠シリーズ。65年の池広一夫監督による第一作『若親分』から67年の同じ池広監督による八作目の『千両肌』までつづき、短期間ながら市川雷蔵の任侠ものという珍しさもあって人気を集めた。その後、雷蔵の遺作となった『博徒一代・血祭り不動』松方弘樹主演の『二代目若親分』へと継承された。

 日露戦争の頃、父の死によって南条組二代目を襲名した元海軍士官の南条武。やくざの世界に入った青年将校の情熱が、ドスにかわって爆発する。主人公が時代のエリートである元軍人という設定と、雷蔵のやくざっぽさを感じさせない端正な魅力とがあいまって、東映やくざとは違う、大映独特の新しいやくざ映画となった。

 素人衆をいたぶる悪徳やくざをやっつけるというのがパターンで、合間に彼の恋模様が描かれる。雷蔵の折り目正しいムードがうまく噛み合って、新しい魅力のやくざ映画シリーズとなった立ち回りがなぜか時代劇的なのがミソ。

若親分

若親分出獄

若親分喧嘩状

若親分乗り込む

若親分あばれ飛車

若親分を消せ

若親分凶状旅

若親分千両肌


若親分シリーズ雑感

海軍士官とやくざの使い分け

 時代劇スターの中では最もインテリジェンスがあり、容姿もキリッとしている市川雷蔵を使って、もと海軍士官のやくざをというもは、なかなかうまい企画だった。ある場面では海軍士官どののサッソウたるところを見せ、つぎのシーンでは派手な刺青のやくざ姿を披露に及ぶ。その変わり身が一人二役的なサービスになるというのがミソ。

 海軍士官・南条武はおやじが闇討ちで殺されたと知るや、前途ある身を放棄し、親の跡目を継ぐ。いくら明治末期とはいえ海軍士官からやくざに転身して仇討ちをするというのは、いかにも古すぎる。しかも、その転身の理由が、“俺の体にはやくざの血が流れているんだ”という以外語られないのでは、底が浅い。まあしかし、そんなセンサクは無用というべきだろう。要は“海軍仕込みの腕と度胸”を発揮するための道具立てなのだから・・・。

 彼は“日活や東映のやくざものとは違った味を出すよう工夫をこらさなくては・・・”と、頭を角刈りにし、衣裳も自分で注文する気の入れようだった。そして“ともかくスカッとしたきれいな侠客で、しかも動きのある若親分ぶりをお見せします”と語っていたが、確かに期待どおりの出来ばえだった。

 やくざをやらせては天下一品という鶴田浩二には、やくざの悲哀が体臭みたいににじんでいる。まっとうな世間からハミ出たくずれた感じがするのだが、雷蔵は清潔すぎて、行儀がよすぎて本当はやくざに適さない。それがこの主人公のように、もと海軍士官ということで、いかにも優等生的な折り目正しいやくざが生れたわけだ。

 若親分は親の仇の新興やくざを叩っ斬って入獄し、大正天皇の御大典で六年ぶりに出獄する。これが第二作のはじまりだ。帰ってみれば南条組は落ち目になり、新興やくざの中新門組が政治家と結んで悪事のし放題である。しかし彼はやくざ廃業を宣言、口入稼業をやるが、中新門の妨害に会う。そのうちもと同期生だった海軍の若手連中が、海軍上層部の汚職を粛清しようとしているのを知り、彼らに代わってその中心人物である例の汚職政治家を斬るのである。ここで海軍仕官の扮装になるのが見せ場。目先は変わっているが、ずいぶんいい加減な話だ。しかしそんな固苦しいことを抜きにすれば、悪党を相手にニトログリセリンを使っておどかしたり、陸戦隊バリの作戦で、僅かの人数で多数の敵をやっつける場面などは楽しめる。

 かくして海軍の仲間の手で大陸に逃亡した南条武が、三度登場するのは、独立運動の騒ぎにまきこまれた蒙古の姫を助けて日本へ戻ってから。陸軍の過激派と対決したり、外国の悪徳商人と結んで、阿片密売や総会荒らしなど、アコギなことをする新興やくざをたった一人でやっつけるというもの。ここでも、友人の服を借りて陸軍に乗り込み、パッと制服をぬいで刺青を見せるという大変派手な芝居をする。さしずめ双肌脱いで大見得を切る遠山の金さんといったところか。この第三作『若親分喧嘩状』の一対何十かの決闘も、倉庫の中を利用してなかなか理詰めな戦いであり、東映あたりの単身殴り込みよりは納得がいく。

 『若親分シリーズ『は、チョンマゲをつけていないことによって現代を意識させ、反面、ダンビラ揮う伊達男礼賛という形で時代劇仕立てにもなっている。これは東映や日活のやくざ映画に共通するものだが、『若親分』の場合、海軍という権威が背後にあり、それを時に利用するところに、ご都合主義と、毛色の変わった面とが同居する。しかも東映などのやくざ映画がもっぱら義理人情、男の意地を主題にしているのに対し、政治とか社会悪と対決する。この点だけでいえば、狙う次元が高いともいえるが、テロリズムを肯定することで、弊害は大きい。政治や汚職をドラマの中にもちこむことが社会的広がりと勘違いしているのではないか。

 “俺はやくざだ。君たち将来のある者の身を誤らせたくない”といって汚職政治家をぶった斬る南条は、友情に篤い、憂国の志士みたいに描かれているが、その行動はかっての右翼テロと同じだ。やくざ同士の出入りならば、まだクズの殺し合いだといっていられるが、テロは否定すべきだろう。それと、三作とも善いやくざ対悪いやくざ、仁義を守る伝統やくざ対新興やくざと、図式化されているのも気になる。

 雷蔵やくざは確かに世のために悪い野郎を叩っ斬ったが、なんの反省のニガっぽさもなく、大手をふってお天道さまの下を歩いているようで感心しない。()

 

市川雷蔵と朝丘雪路の「若親分」

 市川雷蔵は、大映撮影所では、「雷ちゃん」の愛称で呼ばれている。武智歌舞伎から映画に転じてから、かれこれ十一年になる。しかもずっと大映時代劇のトップスターとして不動の地位を守りとおしているのだから、「雷ちゃん」ではなにか子供めくが、中村錦之助の「錦ちゃん」同様、この愛称のうらには、撮影所の人たちの尊敬が、十分こもっているのである。

 だれでもいうことだが、雷ちゃんは、同じ大映の人気を背負っている勝ちゃんこと、勝新太郎と、およそ対照的な俳優である。ふとり肉で、顔も彫りは深いが赤ら顔の丸顔にいかにも野性的な精力が充満している勝ちゃんにくらべ、細面で、整った端正な容貌にすっきりとした知的な魅力をたたえた雷ちゃんは、いうなれば、ホットとクールの両極である。役からいっても、勝が、『悪名』の朝吉や座頭市が当り役であるに反し、雷蔵は、ニヒルな眠狂四郎や、時代に反抗する忍びの者五右衛門が代表的役がらである。スラリとした腰に刀を落としざしにして、殺気を感ずるやいなや、たちまち、円月流の秘剣をぬく間髪を容れぬ早業のみごとさ、クールとは冷いという意味だけでなく、「かっこいい」という意味でも使われるが、まさにクールな青年俳優である。

 今度新歌舞伎座の舞台にかかる『若親分』は、映画で大ヒットし、続いて、『若親分出獄』が製作された、新しい彼の当り芸である。ここでは彼は、時代劇のカツラを脱いで、地頭で登場するが、映画でも、この現代劇の方面では時代劇の約束にとらわれぬ清新な演技をみせ大いに好評を博したものである。『炎上』『破戒』がそれで、二つともその年の最優秀映画に選ばれている。どちらも、深刻な青年の悩みを描いた作品だが、好劇家なら先刻承知の劇界の巨星市川寿海の家をつぐ彼にとっては、この変わり身の早さは当然だったのだろうが、とにかく時代劇の彼をみなれたファンは、その変貌の鮮かさに驚きを禁じえなかったのである。

 今度の『若親分』も、時代は明治だが、やはり現代劇スタイルで演ぜられる。しかも、彼の知的で端正な容貌にうってつけの海軍少尉が彼の役である。今どきでは知らない向きもあるが当時海軍士官といえば、陸軍の野暮ったさにひきかえ、キザでないハイカラの見本のように世人からみられていたものである。仕官の制服を着て短剣を腰につった主人公南条武のりりしさは、きっと満場の拍手につつまれることだろう。しかも、この劇は、かがやかしい未来をもつ海軍少尉の彼が、組の間のもつれから暗殺された父南条組の親分辰五郎の跡目をつぎ、仁侠の道を歩むという筋で、がらりとかわって、竜の刺青がはえるからだをはっての活躍がくりひろげられるのだから、まさに雷ちゃんの独壇場というべきだろう。

 映画では、南条武は、跡目相続の襲名披露のあと、単身父の仇の滝沢の家にのりこみ、海軍仕込みの抜刀術でもののみごとに片腕を切り落す。しかし、滝沢の背後に、もう一人の黒幕、新興やくざとして急にのしてきた暴力団の太田黒組の親分伊蔵がいて、父の暗殺も彼の腹黒い策謀と分り、伊蔵と対決する日が刻々と近づいてくるのだ。その間桃中軒雲右衛門の興行めぐって、劇場焼き打ちのトラブルが起るなど、事件は面白く展開するが、冷く殺気をひろげる雷蔵独特のやくざの雰囲気がみものである。

 この南条武が、海軍少尉の地位をなげうって、仁侠の道をあゆむ転身を、一人の女性が「馬鹿だワ」と罵る。武の幼なじみの料亭花菱の若女将京子である。彼女は武を恋しているが、その切ない恋心を、言葉仇の喧嘩口調にまぎらわせているのである。この役は映画で雷蔵と初顔合せだったが、息が合い非常に好調だった朝丘雪路が、再びつき合って、いきで、いやみのないすっぱりとした色気を見せる。

 朝丘雪路は、若手スターのなかで、いわゆるいきな花街の雰囲気をにじませる第一人者である。ほっそりとした細面の切れながの目が、色気にあふれ、その肢体の動きが、しなやかでうれいを含みながら、しかも、勝気らしい活気がいきいきと流れる。テレビの「芸者小夏」でも御存知だろうが、身のこなしが全くうまい。どっちかというと、雷蔵は知性が勝つというか、そう情緒がからみつくといった演技でないが、それだけに、この情緒百パーセントの雪路とのからみは、この芝居のみどころである。劇ではどういう風に脚色してあるかしらないが、表面に露骨に出さない切ない恋心を、互いに察しながら、別れてゆく大詰めに御期待下さい。(外村完二 昭和40年11月大阪新歌舞伎座公演パンフレットより)

 

   

 

YaL.gif (1987 バイト)

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