文学周遊 村山知義 「忍びの者」
大阪夏の陣で味方が次々に敗走する中、知将・真田幸村は徳川家康を土壇場まで追いつめた。だが、戦いに利あらず、討ち死にを覚悟した幸村は霧隠才蔵ら配下の忍びの者に、「ここで命を棄てることは決して許さぬ」と下知する。著者は長編忍法小説の終盤、才蔵らに「真似手のない技術の持ち主」として他に主を求めさせる道を選んだ。
幸村の戦死場所と伝えられる安居神社は、大阪市天王寺動物園近くの「天神山」と呼ばれる丘の上にある。境内は遅い紅葉をようやく終え、「幸村戦死之碑」に木漏れ日がこぼれる。侍の本分を守り、主家のため命を捨ててた幸村の人気は根強い。中島一煕宮司(66)は「テレビゲームの主人公に取り上げられた影響でしょうか。若い参拝者も増えているんですよ」と話す。
幸村の息子・大助もまた父の命に従い、大坂城で豊臣秀頼に付き添って最期を遂げた。その大坂城は安居神社の北北東約四キロにある。現在の天守閣昭和六年(1931)、全額市民の寄付により建てられた三代目。秀吉の初代天守閣は三十一年に、徳川家光時代の二代目は四十年目に消失した。三代目は太平洋戦争をくぐり抜け、名寿七年目と一番の長寿だ。
平成の大阪城内は中高生や一般の団体客でにぎわう。天守閣の入場者は年間百二十万前後を保ち、最近は韓国からの来場者が増え全体の十五%を占めるという。
その天守閣の最上階にある展望台から、幸村や配下がそれぞれの本分を守り、「死ぬ者は死に、生きる者は散る」地を眺めた。安居神社の場所はビルに覆い尽くされていて、近隣に建つ通天閣を目印に推測するしかない。幸村が大坂冬の陣で築いた出丸「真田丸」跡にある真田山公園にしても、城の南方約二キロにありながらビルで視界をさえぎられている。
著者は特異な技術を持ちながら絶対的な組織の宿命を背負って、非情な世界に生きる者の葛藤を描こうとした。新聞で連載が始まった1960年は、安保闘争の一応の収束をみ、「所得倍増」計画が打ち出された年だ。この後、高度経済成長を謳歌することになるが、現代人もまた所属組織の宿命をを背負っている。ビルの谷間では作品世界と同様に組織と個人の葛藤が繰り広げられている。 (編集委員 小橋弘之)
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むらやま・ともよし(1901
- 1977)
劇作家、演出家、作家。東京生まれ。21年い東大哲学科を中退し、ドイツに留学。23年に帰国し、前衛美術団体「マヴォ
MAVO」を結成。プロレタリア演劇運動に参加、「暴力団記」などの戯曲を発表。戦前に「新劇の大同団結」を提唱し、新協劇団を結成。戦後は東京芸術座などにより、新劇運動を推し進めた。
『忍びの者』は1962年から71年にかけ、五部作として理論社から刊行された。第一部は司馬良太郎の『梟の城』や柴田錬三郎の『赤い影法師』と同時代の作。この三作は話題を呼び、忍法ブームの火付け役になった。著書はほかに『演劇的自叙伝』など。 (作品の引用は岩波現代文庫) |
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