雷蔵と三隅のコンビは、『大菩薩峠』の机竜之助とは全く異なるタイプの、剣に生きるストイックな青年を主人公にいくつかの傑作を生み出している。

 まずは62年の作品で『斬る』。

 雷蔵は独自で身につけた「三弦の構え」の使い手・高倉信吾を演じた。信吾は、何か理由を問われるにつけ「なんとなく」と答える飄々とした屈託のない男であったが、理不尽に義父妹の命を奪われ、あまつさえ実父と信じていた義父の口から出生の真実を聞くに及び、その仇を討ち果たして脱藩、剣をもって流浪の旅に生き、虚無に両足を突っ込む寸前で、心を許せる人物・大目付の松平大炊頭と出会い、大炊頭の警護に武士としての生きる道を見出す。

 信吾の実の母は、とある藩のお家騒動の犠牲で手討となった侍女・藤子。本作は、藤村志保演じる藤子が、お役目で藩主の愛妾を殺害するまでの過程を丹念に、そして厳かに描いた刃傷沙汰で幕を開けるのだが、のっけから三隅節全開の精緻を極めた演出により、映画の冒頭、物語の発端に相応しいインパクトの強い一幕に仕上がっている。

 また、ラストで、信吾が大目付の身を案じ、水戸城中の襖という襖を次々と開け放って探し回る様を、延々と俯瞰で追い続けるカットは、圧巻の一語に尽き、約70分とサイズはコンパクトながら、大映時代劇の技術の粋が結晶した傑作といっても差し支えあるまい。

 原作者の柴田錬三郎は、本作を「映画化された自分の小説の中では、これがいちばんよい」と評している。また、雷蔵作品の人気アンケートでも常に上位に位置するファン人気の高い一本でもある。

 続く63年の『新選組始末記』は、新選組・・・というより近藤勇に魅せられた山崎烝を雷蔵が好演し、史実と照らし合わせたとき細部の処理に甘さが目立つものの、幕末という喧騒に満ちた時代に、実直に生きようとした青年の苦い青春ドラマが描かれた佳作である。

 脚本は星川清司。三隅は本作を看板スターなしのキャスティングで、新選組隊士の群像劇として描こうと考えていたが、シナリオを読んだ雷蔵が会社に出演を願い出て、主演が決ったという経緯がある。それを聞いた星川は、「市川雷蔵主演映画には書き直せない」といい、三隅は「役者の越権行為」と不服を訴えた。しかし雷蔵が「いや、あの脚本は一行も変えてもろたら困る。このままでやりたいのです」と答えたことで三者は一枚岩と化し、以降、三人はそれぞれが盟友と呼ぶべき関係を築いたのである。

 そのトライアングルの成果のひとつが65年の『剣鬼』だ。『斬る』『剣』(64年)と並び「剣三部作」と称される傑作群の一本である。

 雷蔵は、数奇な出生から「犬っ子」と蔑まれて育った主人公・斑平を演じた。育ての親の死に際に、生きていくために何でもいいから人より秀でた技を持て、と遺言された斑平は、やがて花造りに才能を発揮し、登城が許され、仕官後は韋駄天の速足で役を得るまでになる。ある日、初老の浪人の居合術を目の当たりにした斑平は、剣に魅せられ、修練によりその極意を身に付ける。小姓頭・神部菊馬の命により公儀隠密の暗殺を果たした斑平は、以降、神部の元で刺客の道に邁進するのである。

 ひたすら勤勉で、実直に花を愛し、剣に生きたがゆえに訪れる斑平の不運。

 斑平は神部の命令によって、藩内の不満分子を手にかけ、十一人の命を奪った。しかし、藩の体制が逆転したことで神部は逃走し、斑平は罪を免れたものの謹慎を命じられる。だが、斑平に殺された十一人の侍の遺族たちは怒りを押さえられずに、ついに斑平に仇討を仕掛けた。

 ラストの斑平と遺族の大立ち回りは、斑平がヒロインのお咲とともに山中に育てた花畑を舞台に繰り広げられる。快晴の空の下、一面の花を血で染めるという趣向が、斑平のあまりに救われない運命を陰惨に描き出す名場面。

 本作は『斬る』と同様、柴田錬三郎の小説が原作。作者がどのように受け止めたか知るところではないが、個人的には『斬る』と比べて、なんら遜色のない傑作と思われる。