『薄桜記』−雷蔵愛惜

1959年の『薄桜記』は市川雷蔵の代表作の一本というばかりではなく、これ一作だけでも森一生監督の名を不滅のものにする傑作かと思われますが、この作品についていろいろお聞きしたくて、実はうずうずしていました。全体の構成は、市川雷蔵扮する丹下典膳の生と死を勝新太郎扮する中山安兵衛が見守っていくというふうになっているのですが、当時、新進気鋭のスター二人の本格的な競演だったわけですね。

 ぼくはこれ、五味康祐さんの原作を読んだけど、全然違うんですね。伊藤〔大輔〕先生の脚本のほうが全然いいです。伊藤先生も二人を狙って書いたんじゃないかと思います。勝ちゃんが伊藤先生のところへ行きまして、「どっちが主演だ」言うたそうですがね(笑)。したら、伊藤先生が「うまいほうが主演や」。いい答えでしょう(笑)。

 しかし、雷蔵が得してますね。結局、そちらを描くための勝ちゃんでしょうね。勝ちゃんがおるから、あれもきいてくるんでしょうけどね、ああいう人間も。だから『薄桜記』は、青年の出会いですよね。それと女の子との出会い。して、彼女が一方のお嫁さんになったあと犯られる事件に対する二人の姿勢と運命を描いていますね。ただしそのときどきの悲しさとかうれしさとかやなしに、もっと人生のなにか、二人の運命が変わっていくというか。僕は脚本読んだとき、「ああ、これは伊藤先生の人生観だな」と思ったんです。

当時の勝新太郎はまだ二枚目をやっていたんですね。

 あの時代はまだ軽いですよね(笑)。で、ぼくは勝ちゃんの悲しみを出すのは、橋の上ですね、あれしかないと思ったんです。橋の上でなにかあって、次に誰かのところへ訪ねていくんかな。軒先の下に、濡れた傘が置いてあるでしょう。あれで彼の心情を出したつもりなんですけどね。ちょっとキャメラが明るすぎて、その感じが出なかった。

中山安兵衛が、想いを寄せている千春が丹下典膳と縁組みすると知り、雨の橋の上で男泣きしていると、堀部弥兵衛が傘をさしかけるんですね。その千春と典膳と安兵衛の三人の出会いの場として、七面山千春院という中国風の建物が出てきますが、それはセットですか。

 セットです。太田誠一君という美術監督がつくったんです。大映京都のA2いういちばん大きなスタジオですね。

なにか不思議なムードのあるいいセットですね。ラストでは、その境内で大乱闘シーンがくりひろげられる。ああいう美術にも、森監督は注文をつけられますか。

 ええ、つけます。ま、脚本を読んで、出入りの注文ですけどね。して、彼らに合うようなやつを、とね。

それから、典膳が自分の妻を犯すことになる男たちをやっつけるシーンが、橋の上で夕焼けのなかのシルエットになっていて、とても印象深いですね。

 セットは橋だけですね、あれ。バックは全部塗ったんです。ホリゾントから全部、夕焼けの赤に。初めはそうじゃなかったんですが、見たら、なにか足らん。で、夕焼けを赤くしろ言うて、全部塗ったんですよ。待ってるあいだが、三時間か四時間でした。セットとしては橋があるだけです。簡素なという狙いがありましたから。

 

高田の馬場の決闘のシーンはロケーションですか。

 ええ、あれはロケです。京都近くの長岡天神。広場がありましたから。いまもうないかもわかりませんね。

そんなふうにセットを橋だけにしたりロケ地をロケハンしたりするときに、森監督のイメージはあるわけですか。絵コンテとか。

 絵コンテは描きません。だいたいのことを話すだけです。ぼくは、すると、美術のほうがセットのデザインを描いてきて、「これでいいか」と。「いや、ここは重すぎるから、ちょっと軽くしてくれ」とか、ぼくが言うのはそれぐらいですね。くわしく技術的なことは言いません。「人が出入りするところは、もっとこっちにしてほしい」とか。キャメラび本多〔省三〕さんとも、呼吸がだいたい合っていますからね。

 橋の上の決闘シーンでいうと、セットを見て、「ここで立回りをしたらどういうことになるか」と。で、殺陣師が殺陣をつけているあいだに、「向うは白いし、どうしようかな。感じとして合うか合わんか、ああ、これは夕焼けにしたほうがええかな」と。殺陣師に対しても、「この人間はこうやから、その意図を殺陣にしてくれ」ということですよね。殺陣をやってもらって、あんまり複雑だったら流れが壊れちゃうから、「その手は多いから、やめてくれ」と。「埴輪のように簡単でいいから」ちゅう注文だして、やるわけです。

あそこは五人を相手のチャンバラなんですが、たしかに煩雑な乱闘ではなく、ピッピッピッと単純に決っていましたね。あのシーンは長回しでしょうか。

 ワンカットじゃないけど、カット数はあまりなかったですね。あんまりカットを割ると、全体から見た雰囲気とトーンが壊れますからね。闘う者とやられる者の気持ですから、大事なのは。

ロングに引いたシルエットの闘う場面に、雷蔵の「指!」とか「足」とかの声がかぶさる。

 そうです。

五人全部、体の違った部分を斬るんですね。で、耳を落されたり足を斬られたりしたその五人が、恨みをいだいて典膳の新妻を襲う。それから、もっとも強烈に印象深いのは、その連中を含む大勢の敵を相手にして最後の雪のなかの立回りですが、あれがさきほどの七面山千春院のセットですね。

 あの立回りは俯瞰で撮りました。

ずいぶん長い立回りなので、撮影には日数がかかったのではないですか。

 いいえ、二日ぐらいですかな。ただ、ラッシュを見て、アップが足らんので、増やしたところがあります。三カット。狙いはあの俯瞰なんですね。

単なる俯瞰ではなくて、キャメラが俯瞰のまま回る。

 上から回った。やっぱしあれは、ぼくとしても力を入れたシャシンですしね。大映の場合、ほとんど本社で脚本が決ってくるんですけど、あのシャシンだけは自分が書いたような気持ですね。あの人生観に合いますからね。だから、撮ってて、楽しいとか気持いいとか、むしろそんなもんなかったですな。なんともいえん感情で撮りましたな、あれは。

最初。雷蔵が月代を剃った若侍で、匂うような新婚夫婦の愛を見せて、それが出張から帰ってきたら、妻が五人の男に犯されていて、離縁し、その後、片腕を斬り落とされ、虚無の淵に落ちてしまうという、なんとも悲惨な話ですね。

 あれを撮るとき、ぼくは自分の頭が空になったみたいに、ぼうっとやってるだけでしたな。

それはいい状態なのですか。

 ええ、いい状態ですね。楽しいなと思うときは、仕事があるときの自分が楽しいんであって、映画がどうできあがるかというより、つくっているときの楽しみだけですけど、あのときは、たのしみちゅうよりも、自分がなかに入ってたんじゃないですかな。そういう感じでしたね。撮ったあとで疲れも感じないし、やったなあという気もないし、自然に子供が生まれるように生まれたんじゃないですかな、あれは。力んだりはしていないです。「どうだ、良かっただろう」という感じは全然ない、ラッシュ見ても、全然ないです。なにかうつっているから、ああ、そうか、ちゅうぐらいのとこでね。して、試写が終って、みんなが「いいですね」「いいですね」言うても、べつにうれしくもないし、という感じですね。