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西鶴と『大阪物語』    吉村公三郎

 かねて西鶴には多少の興味を持っていたが、本気で西鶴を好きになったのは戦争後のこと。これには織田作之助などに負うところが多い。

 西鶴を映画にしたいと思っていたが、どうにもまとめられずに過すうち溝口健二監督の『西鶴一代女』が出た。この映画は西鶴の簡潔さ、乾いた調子はなく、寧ろ重厚な悲劇になっていたが、たしかに力作であった。溝口監督の『近松物語』が出ていたく感動し、そのとき溝口監督は西鶴より“近松”に近い作家ではなかろうかと思った。ふたたび『大阪物語』で西鶴をとりあげられることになり、脚本を拝見し、前作の『一代女』よりもずっと西鶴調なのに大いに期待していた。

 ところが残念なことには製作にかかられる寸前他界せられ、われわれは偉大な大先輩を失った。そして巨匠の残された仕事を、私ごとき若輩がおひきうけするまわりあわせになったのは、まことに感慨無量である。

 『大阪物語』のシナリオはこういう物語がそのまま西鶴にあるわけではなく、「日本永代蔵」「世間胸算用」「万の文反古」等のあちらから一行、こちらから二三行と集めて来たものを、程よくつぎ合せたり、そこから話を作り出したりして苦心の末、一つの物語にまとめあげられたものである。興味のあることには西鶴がもし現代に生きていて、シナリオを書いたら -実際シナリオに興味をもったに違いないような人物だが- やはりこうしたものを書いたであろうと思われるぐらい西鶴的である。

 これを監督演出する私も、今はなき天才太宰治が西鶴を脚色した「新釈諸国噺」の序文に書いているように「いささか皆さんに珍味異香を進上しようと努めてみるつもりなのである。西鶴は世界で一番偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ、私のこのような仕事によって、西鶴のその偉さがさらに皆に信用されるようになったら、私のまずしい仕事も無意義でないと思う」との言葉をかりて置こう。(パンフレットより)

寛永19(1642)年 −

元禄6(1693)年

大坂に生まれる

代表作品

■好色一代男 (1682年刊)
■諸艶大鑑 (1684年刊)
■西鶴諸国ばなし (1685年刊)
■好色五人女 (1686年刊)
■好色一代女 (1686年刊)
■本朝二十不孝 (1686年刊)
■武道伝来記 (1687年刊)
■懐硯 (1687年刊)
■武家義理物語 (1688年刊)
■日本永代蔵 (1688年刊)
■世間胸算用 (1692年刊)
■西鶴置土産 (1693年刊)
■西鶴織留 (1694年刊)
■万の文反古 (1696年刊)
 井原西鶴は江戸時代前期に上方で活躍した、俳人、浮世草子作者です。
 寛永19(1642)年、彼は大坂の裕福な町人の家に生まれました。15歳の頃から俳諧に親しみ、のちに、談林派の西山宗因のもとに入門します。談林派の俳諧は通俗的な目新しい詠みぶりが特徴で、西鶴は談林派の代表的俳人として活躍しました。特に、京都三十三間堂の通し矢にならい、一昼夜かけて、できるだけ多くの句を詠む「矢数俳諧」が有名です。西鶴は、延宝3(1675)年に妻を亡くした折、追善のために、一人で一日千句詠むという「独吟一日千句」を成し遂げます。このパフォーマンス性が受け、談林派の名前を広めました。これより後、西鶴を含め、多くの人が矢数俳諧に挑戦し、記録が更新されてゆきます。一時は大いにもてはやされた談林俳諧でしたが、次第に飽きられ、宗因が没する天和2(1682)年より少し前頃から、談林派は衰えの兆しをみせました。西鶴も、俳諧から浮世草子へと活動の中心を移しました。
 天和2(1682)年、西鶴は小説「好色一代男」を刊行します。これを始まりとし、江戸初期に上方中心に出された娯楽的な通俗小説のことを浮世草子と称します。浮世草子は大流行し、西鶴はその第一人者として活躍しました。
 元禄6(1693)年8月10日、西鶴は52歳で亡くなります。没後、弟子の北条団水らが西鶴の遺稿を整理編集した、「西鶴織留」「西鶴置土産」などが刊行されました。
 西鶴の作品は、江戸時代は勿論、明治時代以降も、多くの作者に影響を及ぼしました。井原西鶴は、延宝から元禄期の文化形成に大きく貢献しており、江戸時代前期を代表する人物といえるでしょう。   (京都大学電子図書館より)  
 
 「日本永代蔵」(にっぽんえいたいぐら)は、井原西鶴作の浮世草子です。貞享5(1688)年に刊行されました。各巻5章、6巻30章から成っています。
 諸都市の町人の成功や失敗談が書かれた短編小説集で、西鶴町人物の最初の作品です。町人たちの暮らしぶりが西鶴流の軽妙な筆致で書かれています。全編通して、金銭にまつわる喜悲を中心として描き、節約を勧めているところが特徴といえるでしょう。また、諸国の風俗が多く盛り込まれており、これによって当時の文化を知ることができます。経済を主題とした、日本で最初の作品という点でも、本作品は重要な意義をもっています。(京都大学電子図書館より) 
落ち目になった二代目:都に住みながら節約して2000貫目を残して88才で死亡した人がいた。その息子は21才でその財産をついだ。菩提寺に参った帰りに、年季奉公の女が封じ文を拾った。男は家に帰って中を見ると、女郎にあげるお金一分金が入っていた。男はこの金をその女郎に渡そうと揚屋に出向くが、一生の思い出にとこの金で遊興しようと思った。それが運の尽き、わずか4、5年で2000貫の財産を使い果たしたのだった。
神通丸:和泉の国に唐金屋という裕福な人がいた。渡世のために神通丸という大船を作って北国の海に乗り出して米を積んで、難波の港に回漕しては商いをして儲けていた。この北浜で米の陸揚げの際にこばれた米を集め、20年のあいだに12貫500目を貯えた老婆があった。北浜では腕次第で誰でも金が儲けられるのである。
(古典の図鑑より)

「世間胸算用」(せけんむねさんよう)は、西鶴浮世草子の町人物(ちょうにんもの)の一つです。各4章、全20編の短編から成っており、元禄5(1692)年に刊行されました。西鶴の作か否か明確でないものを除けば、これが、西鶴生前に出された作品のうちの最後にあたるものです。
 副題が「大晦日(おおつごもり)は一日千金」とあることからもわかるように、一年の最後の日である大晦日の日に焦点をあて、この日の町人たちの生活・様子を描いた作品です。裕福な町人から貧しい町人まで、各階層の人々の生活を、大晦日という一日を通して描くという、卓越した趣向がこの作品の魅力といえるでしょう。西鶴が生涯関心を持ちつづけていた、時代を生き抜く町人たちの生のあり方を、巧みな表現で描き、西鶴町人物の最高峰ともいわれる作品です。(京都大学電子図書館より) 

 「万の文反古」(よろずのふみほうぐ)は、一通の手紙を一章とし、それぞれに独立した手紙を十七章に並列するが、それらは「万の」と冠されているように、手紙の書き手、その置かれた状況が種々さまざまに虚構されて書かれており、そこには変化に富んだ世界が手紙という趣向の中で展開していく。
 何とか馴染みの男をつなぎとめようとする遊女、故郷を出奔して京へ来たものの今絶望的な状況となっている男、江戸で一旗あげようとするもののどうにもならず故郷の兄に帰郷の旅費をねだる男、冷たかった故郷の親類に恨み言や嫌みをいう男、倒産寸前になっても何とか大晦日をしのぐようにと息子に指示する父親、といった人間が次々に登場、それぞれの状況の中で受け取り手(と同時に我々読者)の心を動かすべく訴えかけて来る。
 一方、こんな緊迫した状況の人たちとは逆に、もててもいないのにいい気になって自分のもてぶりを報ずるとぼけた俗僧や、勘当された後でその尻ぬぐいを依頼するどら息子などもおり、身近なところで起こった奇談・珍談を面白く、時に深刻なものとして報ずる人たちもある。
 さらに、それぞれの手紙は、常套的な挨拶から始まるものがあるかと思えば、挨拶など抜きで切迫した状況をただちに告げるものもあり、飛脚便、荷物とともに送る手紙、人に託す手紙、代筆の手紙といった、さまざまな手紙のあり方までも導入して、一通ごとに変化をつけ、工夫がこらされているのである。
 といった具合に、その手紙の書き手の状況、その内容の書き方はさまざま、まさに変化に富む。おそらく西鶴は、その一通一通を書く時、その書き手の立場に身を置き、受け取り手(読者)の反応を予想しつつ、楽しんで手紙を創作していたにちがいない。                       (清文堂出版 創作した手紙『万の文反古』より)