発言 ■ 残酷作戦 -63 ■ ある助監督から

 

 池広一夫の『地獄の刺客』のラストシーンは極めて注目に値する。

 死骸累々たる岡の上、身に数太刀を受けて絶命していた筈の主人公がやおらムックリと立ちあがるや、これも死んでいた筈の女と手をとりあって抱き合ったまま歩き出す。場内に渦まく観客の失笑にもお構いなく二人は海に向って勇敢に歩き続けてゆく。<ズタズタに斬られた主人公は死ぬだろう、死んだらエンドマークが出るだろう、エンドマークが出たら物語は終りだろう>、かくの如く先を見込んで独り合点していた観客達は完全な肩すかしをくらう。自分達の安易に先行するイメージをあたかも唯一絶対なものであるかの如く考え、それを作品に押しつけることによって自己満足を得ようとする不遜なる一般観客達に対して、いささか唐突な方法ではあったにせよ、これは余りに見事に叩きつけられた挑戦状ではなかっただろうか。観客の安易なイメージ作成法を根底から叩き壊してからでなければ、作者と観客の如何なるコミュニケーションも始まらないからである。

 映画に於ける<残酷描写>も、実はこの点に関してこそ正当な評価を与えられるべきである。

 われわれの日常的な経験の中では恐らく生起することのないだろうショッキングな光景をスクリーンに叩きつけることによって、観客の日常的感覚そして必然的にそこから惹起される安易な情緒と観念の連鎖をぶったぎる作用をこれはなすからである。『地獄の刺客』のラストが長い尺数をかけてやっとなし得たことを、<残酷ショット>は瞬時にしてなし得る可能性を持つ。

 と同時にそれは、<残酷描写>をすること自体の中に作者の姿勢を反映させるという次の段階への移行の出発点となる。

 時代劇に関していえば、『椿三十郎』で心臓から血がふき出してより、諸々の作品に夥しい血が氾濫し始め<残酷この上ない>ということを売り言葉にするものすら続出しているが、その殆んどはくだらないゲテモノ趣味の露呈でしか終っていない。だが、わずかの作品、例えば『天草四郎時貞』や『宮本武蔵』の如き作品に於ける所謂<残酷描写>がいかに必要不可欠な要素としてとらえ得るかということを見事に証明してくれる。

 『天草四郎時貞』の農民に蓑をかぶせてこれを焼き殺すという<残酷描写>は、明確に作者の主張の叩き込まれたところとして解明する必要がある。すなわち、極度の飢餓と圧政にも拘らずただひたすら苦しさを訴えるのみで何ら状況打破の為に自ら立ち上る勇気を持とうとしなかった農民たちに対する厳しい断罪の主張してこの<描写>は提出されるのだ。一人々々が蓑をかぶせられお互いの連帯の意識を視覚的にすら封じられるという徹底した支配者側の意図通りに、彼らは火のついた蓑の中でお互いに呼び合いながらしかもテンデンバラバラの方向に走りまわり一人々々が全く他との連関を断たれた処で焼き殺されねばならない。強力な支配者の下では、単純な被害者意識による結合など余りに無力且つ無残な結果にしか終らないことをこの画面は語っている。かくて、この処刑シーンの丹念な凝視は必要なのであった。