長谷川一夫の大石内蔵助といえば、あまりにも二枚目でありすぎる、という人があるかもしれない。だが、そういう人たちの頭の中には、きっと、これまで舞台や銀幕で演ぜられて来たあまりにも渋く、立役的でありすぎた内蔵助のイメージがこびりついているのではないかと思われる。

 史実を微しても、内蔵助は必ずしも修身の教科的な忠勇義烈一点張りの人物ではなかったようである。前人未踏ともいうべき集団復讐の大事業を、一糸乱れぬ計画の下に見事になし遂げたのも内蔵助の一面なら、祇園の一力に一世の粋名を流したのも、やはり彼の他の一面だったに違いない。尤も、そうした人間大石をあまりにも赤裸々にさらけ出してしまっては、文学の素材にはなっても、映画『忠臣蔵』は成り立たないかも知れない。そうした重剛併せ持った人物を表現するに当って、従来ともすれば剛に傾きすぎた嫌いがあった大石内蔵助のタイプが、長谷川一夫という貫録十分の二枚目スターの持つ独特の雰囲気によって、緩急自在に表現されるとき、より完全な、より人間的な親しみ易い内蔵助となって、衆人をうなずかせることは論を待たないであろう。ここにも大映『忠臣蔵』の興味が少なからずかけられているわけである。

 事実、この長谷川内蔵助は、映画の中で、なんとなく心の惹かれた美しい女間者るいが、今しも清水一角に斬られたと聞いて、思わず大刀を掴んで立上るなど、血も涙も、そして、よろめく可能性すらも多分に内在していると見られる、人間味を持った英雄なのである。

 「今や、私は私なりの大石をやることに努力するより他はない」と、つつましげに語る長谷川一夫の言葉の裡には「自分でなければやれない大石をやるのだ」といった烈しい気魄が籠められていることを見逃してはならない。

 この内蔵助をめぐる四人の女性に、京マチ子、山本富士子、小暮実千代、淡島千景の大女優を配したのも、色とりどりに興味深い。中でも京マチ子のおるいは、千坂兵部腹心の鋭い女間諜でありながら、いつしか大石の人柄の深さに圧倒され、ついにはその任務まで放棄するに至る、強い女の弱さを表わすむつかしい役柄だが、そうした心理のニュアンスは、このグランプリ女優の演技力によって、余すなく伝えられるだろう。見事な劇的構成を持ちながら、案外恋愛的要素に乏しい、『忠臣蔵』の物語の中で恋にも似てもっと昇華されたこの大石とおるいとの美しい人間関係は、しっとりとした潤いを加味するものと思われる。

 小暮実千代の浮橋太夫と、淡島千景の大石の妻りくとは、以前に小暮が東映でりくをやり、淡島が浮橋を演じたことを併せ考える時、自ずから興味深いものがある。

 だが、特有の色気とその押し出しの立派さで、「祇園一力茶屋」の女王ともいうべき一代の名妓を演じ切る小暮実千代の浮橋こそ他に比類を求め得ないものであり、また、世話女房タイプの役で一世を風靡した淡島千景が、四人の子までなしていながら、一言の抗弁もなく涙ながらに離別に甘んじるという「山科閑居」の悲劇のヒロインとして、一層その実力を発揮するであろうことも疑いない。

 その意味で、近づきにくいまでに端麗な美貌に恵まれた山本富士子が内匠頭夫人あぐり、後に若き後室瑶泉院として最適役であることは、誰しも異論のないものだが、よく考えてみると、これまで彼女の時代劇における役柄は意外に庶民的なものが多く、少くともこうした貴婦人の役は初めてだと気がつく。

 大名の妻としての威厳の中に、無限の美しさと哀れさを要求される瑶泉院にこそ、山本富士子ははじめて時代劇でその特長をフルに生かし得る場を得たといえよう。