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 この頼光と四天王は、とりもなおさず大映が誇る若手俳優陣の集まり、つまり大映四天王ともいうべきものです。市川雷蔵さんをめぐる勝新太郎さん、本郷功次郎さん、島田竜三さん、林成年さんたちが、スクリーン一杯に、頼光とその家来四天王に扮して活躍するのですから、ファンはたっぷりと楽しむことができるでしょう。スタジオでもこの五人が集まれば和気アイアイのなかにも、いい意味の競争意識が首をもたげ、ハツラツたる雰囲気をつくっています。

      

 平安中期の武将、貴族。清和源氏満仲の長子。摂津源氏の祖。摂津、伊予、美濃等の諸国の受領を歴任。内蔵頭、左馬権頭、東宮権亮等をつとめた。藤原摂関家に接近し、その家司的存在となって勢力を伸長した。例えば988年(永延2)摂政兼家の二条京極第新築に際し馬30頭を献じたことや、1018年(寛仁2)道長の土御門第新造のときにその調度品のいっさいを負担したこと、道長の異母兄道綱を娘婿に迎え彼を自邸に同居させたことなどはその現れである。こうした摂関家との関係は、安和の変以降の父祖の伝統を受け継ぎ清和源氏発展の基礎を築くものであった。また頼光は早くからその武勇で知られており、彼や彼の郎党と伝えられる渡辺綱坂田公時以下のいわゆる頼光四天王の名は《今昔物語集》をはじめ多くの説話集や軍記の中に見いだすことができる。 

[説話と伝説] 頼光と渡辺綱など四天王の武勇談は能の《大江山》、御伽草子の《酒呑童子》にみえ、大江山の鬼退治として親しまれるようになった。屋代本《平家物語》剣巻に、瘧(ぎやく)病(わらわやみ)にかかった頼光は、加持しても効果なく、床に伏せっていると、ある夜たけ7尺ばかりの法師が縄をかけようとするので、枕元の名剣膝丸をとって切りつけると手ごたえがあり、灯台の下に血がこぼれていた。その血をたどると北野社の塚穴に達し、掘ると中に大きな山蜘蛛がいるので、からめとって鉄の串にさし川原にさらした。これより膝丸を蜘蛛切と改名したと伝える。

 この話を脚色したのが能の《土蜘蛛》で、悩ますのが葛城山の土蜘蛛、退治するのが独武者となっている。御伽草子絵巻《土蜘蛛草子》も同材で、葛城山の土蜘蛛となっているが、退治するのが四天王となる。能も絵巻も葛城山の土蜘蛛とするのは、神武紀に、高尾張邑(たかおわりのむら)に土蜘蛛と称する土着民がいて、神武が征伐し、村名を葛城と変えたとする伝承と関係があろう。

      

 武蔵国の住人で武蔵権介だった嵯峨源氏の源宛の子。摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡渡辺(現大阪府大阪市中央区)に居住し、渡辺綱(わたなべ の つな)、あるいは渡辺源次綱(わたなべ の げんじ つな)、源次綱(げんじ つな)と称し、渡辺氏の祖となる。

 摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で有名。謡曲「羅生門」は一条戻り橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたものである。

 その子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉(住之江)の海(大阪湾)を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄し、源平の争乱から南北朝にかけて活躍した。九州の水軍松浦党の祖の松浦久もまた渡辺氏の出である。

 先祖の源融は「源氏物語」の主人公光源氏の実在モデルとされたが、綱も美男子として有名であった。

 大阪市北区の梅田界隈には源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天満宮(近松門左衛門の「曽根崎心中」で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる座摩神社の宮司家は渡辺綱の子孫である。

 

      

 金太郎にはいくつも伝説が存在するが、静岡県駿東郡小山町の金時神社(金太郎が祭られている神社)に記されたものによると、天暦10年(956)5月に誕生したという。彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれ懐妊した子供とされる。八重桐は故郷に帰り金太郎を産んだが、坂田が亡くなってしまったため、京へ帰らず故郷で育てることにした。成長した金太郎は足柄山で熊と相撲をとり、母に孝行する元気で優しい子供に育った。

 そして天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となる。名前も坂田金時と改名し、京にのぼって頼光四天王のの一人となる。

 永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現京都府福知山市)に住む酒呑童子を退治する。酒呑童子は都に訪れては悪いことをするため、源頼光や四天王たちが山伏姿に身をかえ、神変奇特酒(眠り薬入り酒)を使って退治した。

 坂田金時は寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(現北九州市)へ向かう途中、作州路美作勝田壮(現岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去。享年55だったという。

 勝田の人々は公時を慕い、倶利伽羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬った。その神社は現在、粟柄神社と称する。

 以上が金時神社に記された金太郎の伝説である。だが、実はその存在は疑わしいともされている。しかし、藤原道長の日記「御堂関白記」など当時の史料によると、下毛野公時という優秀な近衛兵(随身)が道長に仕えていたことは確かである。この公時が脚色されていったものらしく、頼光・道長の時代から100年ほど後に成立した「今昔物語集」では、公時の名の郎党が、頼光の家来として登場している。現在の金太郎伝説が完成したのは江戸期であり、寿瑠璃や歌舞伎を通して頼光四天王の怪力童子のイメージが定着していった。

 鉞(まさかり)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルとなった。この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶ。出生の伝説は、母親が山姥で、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で赤い龍が八重桐に授けた子というものも存在する。

 また、“金時豆”の名前の由来でもあり、更に息子の坂田金平は“きんぴらごぼう”の名の由来で知られる。小山町の隣にある南足柄市にも金太郎の伝説は多く、その内容は小山町との相違点が多く見られる。他にも兵庫県川西市の満願寺の墓、滋賀県長浜市など、各地に伝説がある。

 静岡県駿東郡小山町の金時神社には金太郎の伝説のあるちょろり七滝や第六天社がある。ちょろり七滝の水は金太郎が産まれたとき、産湯として使ったといわれており、住まいである金時屋敷(現金時神社)の裏にある。金太郎が丈夫に育ち立派な武将となったことから、周辺の人々は子供が産まれると、この滝の水を産湯にしたといわれている。しかし、南足柄市には夕日の滝という場所があり、金太郎は四万長者の屋敷で産まれ、この滝の水を産湯にしたという伝説もある。

 第六天社は金太郎親子が深く信仰しており、母の八重桐が赤いごはんや魚を捧げたりするのを真似て、金太郎はメダカを捕らえてきては生きたまま器に入れ、社前に捧げたといわれている。

 滋賀県長浜市と米原市は、昔は坂田郡であり、坂田金時は坂田郡の人であると伝えている。今も長浜市には足柄神社や芦柄神社が何カ所もあり、子ども相撲が今も連綿と行われている。なお、この地域は古代豪族息長氏の本拠地であり、金時はその一族であるという。王の文字はマサカリの象形文字で、腹掛け姿は鍛冶を象徴することから、いち早く鉄文化を手に入れた豪族というものである。

     

 天暦4年(950)?-治安 2年(1022)?は平安時代中期の武将。正式な名のりは平季武(たいらのすえたけ)。

 源頼光に仕え、渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人とされる。大江山の酒呑童子退治や、神楽(謡曲)「土蜘蛛」「子持山姥」「滝夜叉姫」に登場することで有名。

 「今昔物語集」巻27−43には、“頼光の郎等平季武、産女にあひし話”がある。暗夜に平季武が馬で川を渡っていると、川の中程に産女がいて「これを抱け」と言って赤子を渡す。季武は赤子を受け取り、岸へ向かう。産女は「子を返せ」と言って追うが、季武は取り合わずに陸へ上がる。館へ帰って見ると、赤子は木の葉に変じていた。

     

 平安時代中期の武将。平姓とも橘姓とも云われる。生まれは碓氷峠付近とする説と相模国とする説がある。

 源頼光に仕え、渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人と称される。大江山の酒呑童子退治で有名。「今昔物語集」には源頼光の三人の家来の一人として、その名が記されている(なお、「今昔物語集」には四天王の筆頭渡辺綱の名前はない)。

 童話の金太郎では木こりに身をやつし、強い人材を求めて旅をするさなか足柄山で金太郎を見いだして源頼光のもとへ連れて行くという役割を与えられている。最近の研究では平忠通は貞光(貞通)の子で、これが三浦氏らの先祖になったとも云われている。

      

 天徳2年(958) - 長元9年(1036)は、平安時代中期の公家。藤原南家巨勢麿流の一族、右馬権頭藤原致忠の子。弟に盗賊として名高い藤原保輔がいる。摂津守となり同国平井に住したことから平井 保昌とも呼ばれる。

 長和2年(1013)に左馬権頭兼大和守に任じられ、以後円融院判官代・丹後守・摂津守・山城守・肥前守・日向守などを歴任し正四位下に昇る。また藤原道長・頼道父子の家司も務めている。武勇に秀で、源頼信・平維衡・平致頼らとともに「道長四天王」と称された。のちに、道長のすすめもあり女流歌人和泉式部と結婚した。彼自身も歌人でもあった。

 10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという。

 同様の説話は「宇治拾遺物語」にもある。また、後世袴垂は保昌の弟藤原保輔と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、今昔物語の説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい為、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている。

(Wekipediaより)