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広がったフレーム 『炎上』

客観視

 監督の市川崑は『炎上』について、“現代”というものを出してみたかったし、「映画を客観視するという態度・・・を考えた最初の作品です」といっている。この“客観視”するということこそ、映画『炎上』のキイ・ワードではなかろうか。美しい三島由紀夫の文体に惑わされ、溝口吾市の心理を追っていったら映画としての成功はなかったろう。口を半開きにして、自分が何を考えているのか分からず、じれているようなドモリの溝口吾市の生活をたどってみることによって、溝口がなぜ驟閣を焼いたかということに迫ろうとしている。

 市川崑は宮川のことを「キャメラをとおして監督の心の中に入ってきて、こちらの意を消化させ、ちゃんと自分の個性を発揮している」といっているが、『炎上』でも“市川の心の中に入って”いき、溝口の行動を距離をおいて追い、溝口のバック・グランドをきっちり撮っている。

 青年溝口吾市が生まれた日本海沿いの暗い荒々しい自然と、うら寂しい生家の顕現寺や、回想で語られる父から驟閣の話を聞いた成生岬の曇りの空と白い波、その父が死んだ時の、海をバックにした葬列と火葬の炎、といった幼年期の情景と対比される、広大で落ち着いた京都双円寺の住職の居室や庫裏のたたずまい、きらびやかな驟閣が池を配して建つ情景を絞り込み、きっちりしたシャープネスのいいモノトーンで見せていく。