星川 私が初めて書いた時代劇は、『新選組始末記』という作品ですが、その成り立ちについては、これまでにしばしば語りましたから、ここでは省略しましよう。

和久本 『新選組始末記』が特別な成り立ちだったことは承知していますけれど、あれに限らず、脚本をお書きになるときイメージしていた役と画面の中の市川雷蔵はいかがでしたか。

星川 イメージどおりの役者というものに、書き手はなかなかめぐり逢えないものですが、あの人は良かったですね。雷蔵の魅力のひとつは凛々しいところだと思いますけれど、思いを決して凛然と生きていく侍を演じたら、誰も比肩できませんでしょうね。私が京都に呼ばれて時代劇を書きにいったころから、あの人の作品は特に悲劇的な色合いが濃くなった。その頃になると雷蔵のもう一つの面である明るさが失われたような気がします。

藤村 『ぼんち』、『濡れ髪剣法』、『初春狸御殿』というような明るくて楽しい映画に、随分出演なさっていますね。雷蔵さんの悲劇性が強くなったのは、星川さんとめぐり逢った頃からじゃありませんか。

星川 そうなんでしょうか。私は役者と交わりを深くして仕事を重ねていったというのは、雷蔵さんが初めてなんです。昭和三十八年から「眠狂四郎シリーズ」が始まって、なぜか私が脚本を書くことになった。その仕事は条件が付いていて、原作(柴田錬三郎)を曲げてはならないということだった。初めからシリーズとして予定されていて、『眠狂四郎殺法帖』が最初。これは失敗作。私に責任があります。あとは書くまいと決めていたんだけれど、また書けといわれて、次は三隅研次監督だという。原作を曲げることは出来ないという条件が再び付いて、監督、製作者、私と、堂々巡りの討論を夜通ししたんだけれど、結論が出ない。三隅さんは「あなたの好きなように書いてくれ」という。それは出来ない。私がやるとすれば、原作の設定を全部外さなければならぬことになる。原作者の柴田さんの怒りをかうことになる。それでもそうしろと三隅は言う。そうしたら責任は誰がとるのかということになる。私がとるほかはない。困惑して私は、私の一存で、雷蔵さんに電話でその旨伝えた。するとあの人は、「あなたにだけ責任をとらせるようなことはしないから、好きなようにやってほしい」という。そういうことがあって、『眠狂四郎勝負』という映画になった。しかし、やはり柴田さんはご機嫌悪いし、重役には「“眠狂四郎シリーズ”はこれで終りだ」と言われてしまった。ところが朝日新聞に、絶賛の批評が載ったんですね。それでその重役も気分が変わってシリーズを続けることになった。雷蔵さんという人は、そういうふうに、陰で力になってくれる人でしたね。

藤村 ご自分では決してこうしてあげたよ、とはおっしゃらないんですが、後から聞くと必ず雷蔵さんが助けてくれたということが随分あったようですね。私の場合は、『忍びの者』の撮影前に落馬して鎖骨を折った時、撮影を後回しにするよう会社に頼んで下さったんですよ。胸が一杯になって━。随分いろいろ助けられました。でも、デビュー作の『破戒』では凄いこと言われたんですよ。

星川 ほう。

藤村 お志保(この役名が芸名になった)という娘をやったんですが、ランプを灯けに行く時の歩き方がバージンに見えないと言われたんです。私は踊りをやっていましたから、歩き方が少し綺麗すぎたのか、こう腰をいれて歩くのがどうかとおっしゃって。映画界のことはまだなれていないときでしたし、私、本当のバージンでしたから、凄く傷ついて衣裳部屋で泣いてしまったんです。

星川 そんなことがあったんですか。あの人は見かけによらず、他人の浮名話なんかとても好きで、そういう気軽なあかるい人柄でしたがね、「あれとあれがああなってこうなって」なんて軽口はいつもでした(笑) あるとき銀座のクラブに行ったら、ホステスさんが「こちら、市川雷蔵に似てるわ」。最初は雷蔵さんもとぼけていたんですが、何かの拍子に、「僕、雷蔵です」と言っても、「ご冗談ばっかり」、それくらい、素顔と画面が違う人でしたね。