藤村 偶然というと誤解が生じますが、まったく無関係なものが偶然ではないんです。ただ、リハーサルを何十回繰り返すからといって良いものができるとは限らない、と。セリフにつまっても、歩いている時につまずいても、それが偶然そうなってしまったとしても、それは演技として自然であり、生だからというこで勝さんは撮っていくわけですよ。けれど、演技と生の部分というものがどこで一致したから良い演技なのか、私は未だによく分からないんです。

星川 十回やれば全部演じ方が違う。決して同じものにはならない、それが演技の本質だと勝さんは言うんです。ところで、話はまったく変わるけれど、和久本さんは雷蔵さんがあんなに若くしてあの世に行ったことを、どういうふうにお思いですか。

和久本 逝ってしまったという気がしないんですよ。今でもスクリーンの中で輝いている雷蔵に、スクリーンを通してではあるけれど会っていますから、私には生きているんですね。だから皆が夭折したとか、三十七歳で逝ったのが彼の映画に永遠の命を与えたとか、おっしゃる方もいますが、そういうふうにはっきり言い切れない・・・。

星川 私、ひところ、あの人が三十七歳で死んだということが非常に心残りだった。でも、近ごろこれで良かったのかなと思えるようになってきました。これも何かの思し召しなのかな。というふうにだんだんと思えてきたんです。雷蔵という人は、幻影になったんだ。幻影というものは、ときとして生身の人間より鋭く、生きている私たちに迫ってきますからね。そういう市川雷蔵でいいんだ、というふうに思い込もうとしている、というのが正直な気持です。でも、私にしろ藤村さんにしろ、雷蔵といっしょの仕事がたくさん出来たはずなんですよ。ただ一つ、あの人がテレビの仕事に手を染めなかったのは良かったな、と私は思っています。これはテレビジョンがどうこうということではなく、雷蔵さんのために良かったと思う。

和久本 「鏑矢」(市川雷蔵が主宰していた舞台集団)の稽古は、藤村さんと少しだけしていましたよね。

藤村 一日だけしました。それも本読みだけ。「海の火焔樹」という舞台女優と男優のお話だったんです。京都のお寺の広間を借りての稽古だったんですが、一日だけ。翌日雷蔵さんのお具合が悪いので、東京に検査にいらっしゃるから、稽古は中止という連絡があって、その時は皆深刻に受け取っていなかったんです。そうしたら、そのまま順天堂病院へ入院なさって、手術を受けられたんです。その後一度退院して、『眠狂四郎悪女狩り』と『博徒一代血祭り不動』をお撮りになったんですね。そして年が明けて、『千羽鶴』の予定も駄目になって、再入院なさったのが二月頃だったのかしら。亡くなられたのが祇園祭の当日(七月十七日)でした。撮影所に行ったら、雷蔵さんがなくなったって・・・。

和久本 その時、藤村さんはずいぶん泣かれたとか。『新選組始末記』の山崎(雷蔵)を愛した志満の慟哭を観るたびに、それを思い出します。

藤村 身体がちぎれていくみたいに痛くて痛くて、ガタガタ震えてしまうものですから、何だか泣き叫んでいたそうです。ちょうど去年の七月、そろそろ京都では祇園囃子が聴こえてくる頃だな、雷蔵さんの命日ももうすぐだ、なんて思っていたとき、その時はすでに勝さんがハワイから帰って、小菅に入っていらっしゃったんです。ですから雷蔵さんの命日のことを、勝さんに告げたいと思って、弁護士さんに手紙を届けていただいたんです。そしたらお返事が来て、「雷ちゃんが会いにやって来たよ」と書いてあるんです。つまり、私の手紙が勝さんの手元に届いたら、近くに雷が落ちたというんです。ゴロゴロゴロって雷ちゃんが会いに来たって言うんですね。それを読んだとき、勝さんと雷蔵さんはとっても仲良しだったんだなって思いました。 

星川 ええ。

藤村 いつだったか、星川さんが書かれたエッセイを読んだんです。星川さんは、雷蔵さんが死んだということを信じたくないから、本門寺へは行かないって、書いてらしたのね。私は毎年七月十七日、ひとりでお参りに行くんです。お参りして、近況報告をするんですが、星川さんのエッセイを読んで、こんなにも悲しみが深いのかと思いました。星川さんにとって雷蔵さんとはかくも大きな存在であり、あのお墓に行けば、雷蔵さんはもう死んでいることを認めなければならない、だから行かない。私、それを読んだとき、ものすごく考えてしまいました。

星川 ずいぶんキザなこと書いたな。ごめんなさい。