企画から撮影に入るまで

- 『二十九人喧嘩状』スタッフリレー -

 

美術を担当して

上里 義三

 本読みがすみ、スタッフの打ち合わせがすむと、撮影に入るまでが準備期間にあてられる。他の部署についても同じことは云えるのだが、美術も、決められた日数以内での仕事が第一に要求されている。

 ロケーションハンティングがすむと、その後すぐにセットの準備にかかり、一週間でロケ地に組むセットと、セットのデザインを完了した。『二十九人の喧嘩状』の場合は、セットが十二杯と、オープンセットが二杯(仁吉の家と、大漁踊りの場)で、まず普通作品なみである。これらのセットデザインは出演俳優のスケジュールとにらみ合わせて作成されるセットスケジュールに従って大道具の方に回される。青写真をもらった大道具では、一杯のセットを普通は三日間で完成しなければならない。これは少々無理なことではあるが、デザインを引くにあたっても、この事は考慮に入れてある。勿論、実物通りのセットを組むわけではないし、反ってそうすることは無意味でもある。見た目よりもカメラアイを通してのものが重要であるからだ。短時間でしかも少人数で作成し得るものが常に要求されて居り、われわれの仕事もその線に沿ってこそ成果を挙げ得る。

 『二十九人の喧嘩状』は、吉良の仁吉を主人公とするやくざ物である。まず調べることは土地の状況、風習、そして吉良の仁吉の社会的背景、そして対人関係である。ところが仁吉は当時の他の親分衆に較べると決して立派ではない。むしろ小さい方の部類に属する。吉良の仁吉はたいした親分ではなかったとしても、今度の『二十九人の喧嘩状』では仁吉が主人公である。家構えなども史実通りに、他の親分よりもちっぽけな、みすぼらしいものにしたのでは映画として恰好がつかない。やくざものの颯爽さが、そのセットだけでもこわされてしまう。史実は史実、映画は映画なのである。

 やくざものの家の作りはだいたい決っている。入ったところ、玄関先に少し広い土間があって、表に面した所に台所がある、といった風である。見た目よりもカメラアイ中心のセットを組むのは当然のことであるが、これで何が一番大切かといえば、云うまでもなく画面の構図である。カメラアングルが一つ一つ絵になるようにデザインするわけで、例えば、軒を普通の家より低くする。低くすると云っても、身長五尺四、五寸の俳優さんの頭の上にチョンマゲがのっているのだから、そういった事を考えた上で、不自然でない限度まで低く作る。すると画面もつまるし、俳優さんもそれだけに引きたつことになる。

 その他に、やくざの親分の家なのだから、どっしりとした重みを感じさせたい。表から見た感じもそうであるし、中へ入っても、ちょっとした工夫で、どれかの柱が太いとかでそういったものを出すのであるが、われわれの仕事の念願は、如何にもセットでございますといったものを作りたくないことである。セットは、所詮セットであるような仕事ではつまらない。

 限られた日数と、切りつめた予算でするこの仕事の中で、苦労と云えば、決められたセット費用を如何に配分するかである。十二のセットと二つのオープンセット、これだけを作るための費用が始めからきまっている。重点的な金のかけ方になるし、一つのステージにかける金もだいたい一定している。これは、それだけで充分ではなくとも、かと云ってそれ以上費用をかけることは無意味である額になっている。他社には負けたくないだけに、その限られた金で立派なセットを作る事が、苦労でもあり、やり甲斐あるものなのである。