なんでも、しゃべりましょう


       

歌舞伎から映画へ

 山本 雷蔵さんはたしか京都のお生れでしたね。

 市川 ええ、しかし四つ位で大阪へゆきましたから、大阪育ちというべきでしょう。幼稚園、小学校、中学校とずっと大阪です。

 山本 歌舞伎にお入りになったの?

 市川 あれは昭和二十一年ですか。終戦直後でした。寿海の家へいったのが二十六年、このとき雷蔵を名乗りました。

 山本 小さい時から役者を志していらしたのですか。

 市川 いいえ、戦争中なんかは海軍兵学校の服装にあこがれて、海軍にはいりたいと思ってたし(笑)、そのもう一つ前は、ぼくは大変体が弱くて、一カ月に一週間くらいは医者にかかっていたので、そのころはお医者さんになりたかった。お医者さんが大好きでね、看護婦さんとも仲よしになって・・・。

 山本 看護婦さんといえば、岡田茉莉子さんも小さいとき体が弱くて、看護婦さんになりたかったそうです。

 市川 岡田さんの看護婦さんで市川医院というのをやりますかな(笑)。市川産婦人科(笑)。

 山本 男の患者さんもやってくる産婦人科ですね、岡田さんのファンが(笑)。ところで初舞台はおいくつ?

 市川 数え年十六歳。中年ですね、歌舞伎の世界では。

 山本 ええ?

 市川 歌舞伎では五つ、六つから初舞台を踏むのが普通なので、ぼくのようなのは中年の歌舞伎俳優というわけです。

 山本 映画へ入られたのはどんなきっかけからです?

 市川 映画にはいったのは二十九年だから二十二の年ですね。

 山本 やはり大映から相当にモーションをかけられたわけですか。

 市川 簡単にいえばそうです。大映にスカウトされたということです。その前に東映に行っていたんです。

 山本 東映に?

 市川 ええ、仕事はついにしませんでしたが、来ないかということで。日活からの話があって、日活へも行ったことがあるんですよ。日活にいたらどういうことになったかな(笑)。

 山本 日活も昔はアクションものばかりではなく、時代劇もやっていましたからね。

 市川 ええ、新国劇なんかで撮っていましたからね。しかしあのころのぼくを見たら、誰だって役者として使う気にならなかったでしょうね。よく大映が使ってくれたと思いますね。まったく役者顔(やくしゃづら)じゃないですからね(笑)。

 山本 映画では、役者顔(やくしゃづら)じゃない役者のほうが可能性は大きいですよ。いまの時代では。

 市川 それでいて役者でなきゃいかんわけです。

 山本 『炎上』に出られるまでずっと時代劇専門だったわけですが、『炎上』以外の作品で快心作というのはどれですか?

 市川 なかなかありませんね。『炎上』だっていろんな点からいえば快心の作とはね。たまたま受賞はしましたが、それが快心の作であるかどうかは疑問です。快心といえるものがないというのが、ほんとじゃないかな、いつの場合でも。

 山本 そりゃそうかもしれません。そのときは全力をつくしていても、できて、受賞して、一応ピリオドを打ったからそれで満足だということはないかもしれませんね。でも『炎上』ではずいぶん冒険でしたね。

 市川 時代劇のきれいごとでやっていたのが、ドモリの放火犯を演じるのですから、市川監督が大変熱心にすすめて下さり、一年間そのままで、気が変らなかったのですから、ぼくも思いきってふんぎりました。そしてよかったと思っています。市川先生は大変俳優を使うことのうまい人ですね。