陸軍中野学校シリーズ(1966/6〜68/3) as of 11/21/22 |
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日本陸軍の諜報員養成機関といわれる陸軍中野学校の実態とその活動を描く邦画では、珍しいスパイ映画。66年〜68年にかけて5本製作され、時代劇スターだった市川雷蔵の現代劇での代表作となった。
陸軍中野学校の一期生となった椎名次郎が敵国スパイをつきとめて、その謀略を打ち砕くというのが基本設定だが、増村保造が監督した一作目のみその基本パターンからはずれて、中野学校生ひとりひとりの悲哀を描いた青春映画として出色のできとなっている。娯楽色がついたのは第二作目以降。 主人公・椎名のキャラクターは“大菩薩峠”“眠狂四郎”シリーズで市川が培ってきたクールで無頼な二枚目役の延長線上にあり、まさにハマリ役。レギュラーらしいレギュラーは上官役の加東大介ぐらいしかおらず、あとは毎回女優がゲスト出演というシリーズもののお決まりパターン。全作モノクロ撮影の画面も、とかく嘘っぽくなりそうなスパイ戦にリアリティを与えている。( ぴあ CINEMA CLUB[邦画編]より) |
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『陸軍中野学校』 『陸軍中野学校』は時代劇スター、市川雷蔵の数少ない現代劇シリーズで、1966年から1968年まで二年間で五作品が作られた。 1960年代は、日本映画が娯楽の王者から転落して行った時期である。ピークの1958年には11億人を数えた日本の年間映画館入場者数は、テレビの普及と反比例して年々大幅に減少し、十年後の1968年には3億人にまで下降した(現在は1億人強で安定している)。 この時期の大映を支えたのは勝新太郎と市川雷蔵の二大スターである。家庭でテレビを見始めた人々を映画館に引き止めるため、彼等の主演するシリーズ映画が毎週のように全国の大映直営館・契約館で封切られた。 勝新太郎主演の代表的シリーズには『悪名』(61年から15本)、『座頭市』(62年から22本)、『兵隊やくざ』(65年から8本)があり、市川雷蔵主演の代表的シリーズには『忍びの者』(62年から8本)、『眠狂四郎』(63年から12本)、『若親分』(65年から8本)があった(本数は大映で製作、又は配給された数。他社で製作・配給された作品は入っていない)。 このような大映のシリーズ路線の中から、60年代後半に生れて来たのが『陸軍中野学校』シリーズである。時代劇が圧倒的に多い雷蔵が、このシリーズではスーツ姿に拳銃を構えて、また新しい魅力を発揮している。 『陸軍中野学校』の元となった作品は『忍びの者』と『007』であろう。雷蔵自身のシリーズである『忍びの者』は説明するまでもないが、『007』は、第一作『007は殺しの番号』(再公開題名・ドクター・ノオ)が1963年に日本で封切られ、『陸軍中野学校』が作られる1966年までに四作品が公開されている。 戦国時代の『忍びの者』と冷戦時代の『007』を融合させる場所として太平洋戦争直前、昭和十年代に実在したスパイ養成機関、中野学校に着目したところは大映の優れた企画力の一例と言えよう。 『忍びの者』シリーズと同様、『陸軍中野学校』シリーズも実写フィルム的リアリティを出すために白黒で撮られている。昭和四十年代のカラフルな風景の中でロケをしながら見事に昭和十年代がスクリーンに現出している。時代ばかりか場所に関しても、海外ロケは一切行っていないにも拘らず、上海や香港が説得力を持って描かれている。大映撮影所の撮影スタッフ、美術スタッフの力である。 監督は、第一作が東京撮影所の、雷蔵とはあまり馴染みのない増村保造。1961年の『好色一代男』以来五年ぶりの顔合わせであるが、この後、67年には『華岡清洲の妻』という二人にとっての力作がある。 この一作目は、主人公がスパイになるまでの教育過程を描いており、後のシリーズ作品から見ると異質の作品となっている。増村保造は、人間性を抑圧する日本的状況に抵抗する人間を娯楽映画の中で描き続けた映画作家だが、この第一作は『兵隊やくざ』(65)『赤い天使』(66)といった彼の“戦争もの”の一つとして見ることも出きるかも知れない。二作目『雲一号指令』以後は雷蔵の本拠地である京都撮影所の製作となる。監督は、時代劇の名作『薄桜記』(59)や、現代劇『ある殺し屋』(67)など、雷蔵との縁も深いベテラン森一生。安定した技量を買われてシリーズの二作目以降を担当することが多かったが、本シリーズでも好評の第一作を受けてシリーズを軌道に乗せる役目を危なげなく果たしている。 三作目『竜三号指令』の監督は森監督と同様、大映の製作ローテーションに組み込まれて数々のプログラム・ピクチャーを量産した田中徳三。雷蔵と同じ頃、監督デビューした田中監督は、雷蔵とはお互いに同期生的気安さがあったようだ。『鯉名の銀平』(61)、『手討』(63)といった雷蔵主演の傑作を撮った他、勝新の『悪名』シリーズを生み、育てた監督でもある。『竜三号指令』は『座頭市鉄火旅』との二本立てで1967年の正月映画として一月三日に公開された。『陸軍中野学校』が『座頭市』と並ぶ大映の強力シリーズとして会社にも認められたということであろう。 四作目『密命』は、このシリーズの監督の中では一番若手の井上昭が監督した。謎のスパイ、(キャッツ・アイ)をめぐるミステリー仕立てのこの作品は、パターンの違う第一作は別として、シリーズ中、最も面白い作品であることは誰もが認めるに違いない。五作目の『開戦前夜』も井上監督であることが、四作目の評判の良さを証明している。 脚本は、一作目が『眠狂四郎』シリーズや『なみだ川』(67)を書き、現在は直木賞作家の星川清司。四作目が、作家舟橋聖一の弟、舟橋和郎。他の三作はベテランの長谷川公之が担当している。 共演は、東宝の加東大介が中野学校の創始者で雷蔵と並んで全作に出演している他は、毎回、待田京介、佐藤慶、戸浦六宏、松村達雄、山形勲、久米明、船越英二、細川俊之、内藤武敏といった存在感のある悪役や渋い演技を見せる脇役、重厚なベテランなどがズラリと周りを固めている。 そして小川真由美、村松英子、松尾嘉代、野際陽子、小山明子という、新劇、NHKアナウンサー、撮影所、と出身は様々だが理知的な女優が、敵の女スパイとして雷蔵と対決する(小川真由美は単純に敵とは言えないが)。これに安田道代(現・大楠道代)、高田美和といった大映の新人“お嬢さん”女優が絡んで作品に彩りを添えている。凋落期とは言え、まだプログラム・ピクチャーが定期的に量産されていた頃ならではの豪華な顔ぶれである。 『開戦前夜』の翌年、1969年7月17日、市川雷蔵はガンのため三十七歳で生涯を閉じた。1954年に『花の白虎隊』でデビューして以来、遺作の『博徒一代血祭り不動』まで出演作品は153本。「陸軍中野学校」シリーズはそのうち133本目、136本目、139本目、142本目、149本目に当たる。 大映スタッフのプロの技術と厚みのあるキャスティング。「中野学校」シリーズはスーツ姿のスパイ・市川雷蔵を真珠湾攻撃直前の一瞬で凍り付かせたまま、冷たく永遠の輝きを放っている。(1993年4月10日発売LD「陸軍中野学校全集」解説より)
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久世光彦がすすめる『陸軍中野学校』 『薄桜記』とか『眠狂四郎』とか、市川雷蔵が色っぽかった映画は数あるが、昭和四十一年に増村保造が撮った『陸軍中野学校』ほど、この人の無表情に色っぽかった作品は他にない。はじめは坊主頭に陸軍少尉の軍服で現れ、後に髪を七三に分けた背広姿になるのだが、そのいずれもが、白い経帷子の死人のように見えるのだから不思議である。そう言えば、全篇を通じて呟かれる雷蔵のナレーションも、雨の破れ寺から聞こえてくるお経のようだった。映画の中で、男があんなにアナーキーに綺麗だったということが、三十年経ったいまでも、私には信じられない。 《陸軍中野学校》は日中事変のすぐ後に創設されたという、伝説のスパイ養成所である。中野の電信隊の跡地にあったと噂に聞くが、記録も関係者の有無も曖昧で、戦後五十年のいまとなっては、調べようのない幻の学校なのである。一般の若い将校が十八人、秘かに集められ、軍籍も戸籍も抹消された影として生きることを命令されるところから、この不吉な物語ははじまる。変装、暗号解読、拷問、暗殺・・・・・スパイに必要なあらゆる技術が教え込まれ、彼らはだんだん《人間》ではなくなっていく。抑揚のない低い声と、少しも動こうとしない表情の雷蔵は、そんな非情な世界の住人にぴったりだった。 この映画はグループ劇だった。スターシステムの当時の映画としてはめずらしいことである。けれど、やはり雷蔵が不気味な燐光のように暗く揺らめいて、際立っていた。ラスト・シーンで、雷蔵は心ならずもイギリスのスパイになった婚約者の小川真由美を毒殺する。そして地底の声のように呟く。《私もスパイだった。私の心も死んだ》−そして彼は、動乱の中国へ独り旅立っていく。 星川清司のよくできた脚本と、増村保造の歯切れのいい演出で、『陸軍中野学校』は一級の娯楽映画になっているが、この映画のほんとうの愉しみは、雷蔵の白い頬に揺らめく狐火に酔いしれることである。( 週刊文春8/13/98号 より)
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