忠臣蔵

1958年4月1日(火)公開/2時間46分大映京都/カラーシネマスコープ

製作 永田雅一
企画 辻久一・蔭山俊夫
監督 渡辺邦男
脚本 八尋不二・民門敏雄・松村正温・渡辺邦男
撮影 渡辺孝
美術 上里義三
照明 加藤庄之丞・伊藤貞一
録音 大角正夫
音楽 斎藤一郎
出演 長谷川一夫(大石内蔵助)、鶴田浩二(岡野金右衛門)、勝新太郎(赤垣源蔵)、京マチ子(おるい)、若尾文子(お鈴)、山本富士子(内匠頭妻あぐり)、木暮実千代(浮橋太夫)、淡島千景(大石妻りく)、根上淳(土屋相模守)、黒川弥太郎(多門伝八郎)、菅原謙二(脇阪淡路守)、川口浩(大石主税)、梅若正二(矢頭右衛門七)、川崎敬三(勝田新左衛門)、林成年(堀部安兵衛)、高松英郎(関根弥十郎)、品川隆二(大高源吾)、千葉敏郎(山岡平八郎)、三益愛子(戸田局)、川上康子(舞妓小菊)、浦路洋子(勝田妻八重)、近藤美恵子(遊女五月)、小野道子(紅梅)、阿井美千子(遊女刈藻)、志村喬(大竹重兵衛)、滝沢修(吉良上野介)、小沢栄太郎(千坂兵部)、清水将夫(柳沢出羽守)、信欣三(大野九郎兵衛)、東山千栄子(大石母たか)、坊屋三郎(町人源吉)、田崎潤(清水一角)、中村雁治郎(垣見五郎兵衛)、中村玉緒(浅野家腰元みどり)、矢島ひろ子(遊女千歳)、八潮悠子(遊女薄雲)、穂高のり子(遊女夕霧)ほかオールスター
惹句 『赤穂浪士の決定版堂々三時間一挙上映』『大映創立十八年の宿願ここに実現日本映画界未曾有の豪華配役で放つ忠臣蔵映画の決定版』『赤穂浪士二百六十年祭記念公開』

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昭和33年/1958年「配集トップ10」(配給収入:単位=万円)

1.忠臣蔵 大映 (41,355)

2.陽のあたる坂道 日活 (40,070)

3.紅の翼 日活 (36,495)

4.隠し砦の三悪人 東宝 (36,264)

5.任侠東海道 東映 (34,178)

6.明日は明日の風が吹く 日活 (32,150)

7.風速40米 日活 (31,809)

8.日蓮と蒙古大襲来 大映 (30,512)

9.彼岸花 松竹 (29,422)

10.旗本退屈男 東映 (29,146)

[小史]

 『忠臣蔵』という呼び名は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳共作の名作『仮名手本忠臣蔵』からきている。もともと赤穂浪士の討入りを主題にした劇や音曲は、義士劇・義士物と呼ばれていたが、出雲らの名作が出て以来、その略称『忠臣蔵』が義士劇一般をさすようになり、一般に広まった。

 映画における『忠臣蔵』の歴史は明治に遡る。日活の前身、横田商会の作品で監督牧野省三、大石・尾上松之助、大正十年には、監督牧野省三、大石・尾上松之助、浅野内匠頭・中村扇太郎の日活作品と、牧野が独立プロを作って、大石・阪東彦蔵、脇坂淡路守・内田吐夢などで制作した。大正十五年には初めての決定版ともいえる『忠臣蔵』二十巻が、日活で制作され大ヒットした。監督・池田富保、大石・松之助、吉良・山本嘉一。昭和十三年・日活、監督マキノ正博・池田富保、大石・阪東妻三郎、内匠頭と立花左近・片岡千恵蔵、脇坂と清水一角・嵐寛寿郎など当時の時代劇スター総出演で、興行的にも成功した。

 昭和十六年、松竹が『元禄忠臣蔵』を監督・溝口健二、大石・河原崎長十郎、内匠頭・嵐芳三郎で制作。綿密な時代考証や溝口の凝った演出と相まって、当時絶賛を博した。昭和二十九年、戦後最初の『忠臣蔵』を松竹が制作。村上元三・依田義賢共同脚本、監督・大曽根辰保、大石・松本幸四郎、内匠頭・高田浩吉、吉良・滝沢修。昭和三十一年、大仏次郎原作『赤穂浪士』が東映によって映画化、監督・松田定次、大石・市川右太右衛門、内匠頭・東千之介、吉良・月形竜之介、小山田庄左衛門・中村錦之助。

 そうして昭和三十三年、大映創立十八年の宿願、オールスターによる映画化である。

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市川雷蔵演ずる悲劇の浅野内匠頭にスポットを当ててみよう。

一 愛慕無限

 たび重なる吉良上野介の冷たい仕打ちに憂愁の日々を送る内匠頭は、優しく美しいあぐり-後の瑤泉院-の愛情に慰められ、明日に迫る危機を知らない。華やかな夕の宴の優雅さも、来るべき破綻の無残さに対比され、一人哀れをとどめる。

二 殿中刃傷

 江戸城松の廊下の出来事は、夢ならば醒めて欲しい-。華やかな大紋烏帽子が胸に重い。「覚えたかっ!」振り上げた遺恨の一太刀も額にかすり傷を残すのみ-。「放せ、お放しなされっ!」絶叫する内匠頭の声もむなしく梶川与兵衛に抱きかかえられ、眦を決して無念の形相。憎々しげな滝沢修演ずる上野介と対比する美しく悲哀を秘めた市川内匠頭!

三 元禄ざくら

 「かりそめにも五万三千石の城主を!」と訴える土屋相模守(根上淳)-。「喧嘩両成敗は家康公以来の掟」 多門伝八郎(黒川弥太郎)の正論も柳沢出羽守(清水将夫)に押し切られた。城中刃傷の処置の厳しさは即刻切腹!芝愛宕下の田村邸へ。吉良上野介は何のお咎めもなかった。

 朝に変わる罪人の身にせめてもの慰めは、陰ながら主従の別れを告げ得たことであろうか。「国元の大石に会ったら、無念じゃと伝えて・・・」最後の別れも慌しく白装束の恨みも深く、無念の心を秘めて三十五歳の生涯を閉じた内匠頭。庭の白砂と風に舞う桜花も寂しく哀れを誘う田村邸の庭先。三方の短刀を手にした内匠頭の頭上にも桜の花びらが振りかかって、辞世-

風さそう花よりもなお我はまた 春の名残りをいかにとかせむ

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★解 説★

 日本映画史に幾多の名作を残し、輝かしい業績を誇る大映が、あえて、これが最初にして最後の「忠臣蔵」であると公言してはばからない絶対の自信であります。

 いうまでもなく、赤穂浪士の物語は広く大衆に親しまれ、日本人の精髄ともいうべき一大国民ドラマであります。そして、過去において、歌舞伎、文楽等を初め数々の舞台に幾度び上演されて来たか計り知れないほどの大衆の支持を得てまいりました。この好題材は映画においても同様で、義士銘々伝ないしは外伝的なものを含めると、おそらく映画史上一番多く映画化されて来たものといえます。

 この大映の「忠臣蔵」は、今日の日本人の胸になお生きつづけているこの題材を、「羅生門」「地獄門」等の世界的傑作を発表しつづけてきた大映の名誉をかけ、大映の誇る全機能を集中して製作したものであり、その配役の豪華さにおいて、その内容の充実さにおいて、その興味の豊かさにおいて、正しく未曾有の超大作に恥じない巨篇であります。しかも、映画が将来いかなる発展をとげようとも、「忠臣蔵」にかぎってこれ以上の完璧さを備えたものは決して製作し得ないだろうとの自負すらも持つ作品であります。

 まず目を奪われるのはその豪華な配役陣にあります。即ち、大石内蔵助には長谷川一夫、浅野内匠頭には市川雷蔵、義士の一人赤垣源蔵に勝新太郎、同じく岡野金右衛門に鶴田浩二、また、女間者おるいに京マチ子、内匠頭の後室瑤泉院に山本富士子、祇園の遊女浮橋太夫に木暮実千代、大石の妻りくに淡島千景、大工の娘お鈴には若尾文子の大スター陣が顔を揃え、他に滝沢修、黒川弥太郎、船越英二、川崎敬三、小沢栄太郎、志村喬、中村鴈治郎、東山千栄子、中村玉緒、阿井美千子、長谷川季子、穂高のり子、若松和子、三益愛子、根上淳、林成年、川口浩、菅原謙二、見明凡太朗、潮万太郎、清水将夫、田崎潤、沢村宗之助らが加わり、総勢112名の大キャストが編成されております。

 また、「忠臣蔵」といえば、そのセットも千代田城松の廊下をはじめ、どのセットも大きいもので、ここにも大映の総力を結集した威力を示します。例えば、松の廊下ごときは四百坪にあまる規模をもち、巾三間、三尺の切妻附き、長さ二十五間、大名陥八十五畳、その他控えの間、蘇鉄の間等々の諸部屋を含み、欄間の彫刻だけでも三十八個、総工費500万円をかけたものです。それにも増して、赤穂城、一力茶屋、江戸の町々は大がかりなセットが組まれ、ラストの吉良邸討入りシーンは二千坪の大オープンセットに最高の興奮を盛り上げながら撮影されました。 

 映画は、天の巻、地の巻を併せて堂々三時間、赤穂義士の元禄快挙をあますところなく描いて全篇に幾度びかの興奮と感動を盛りあげていきますが、監督に当った渡辺邦男は、その長く豊富な映画演出経験をこの一作に投じて、この傑作を作りあげました。日本映画界最高のスタッフと、日本映画演劇界よりすぐられた最高のキャストによって雄渾のスケールとスペクタクル豊かに繰りひろげられる絢爛の絵巻、大映の「忠臣蔵」は、“赤穂浪士の決定版”と申して過言ではありません。(公開当時のプレスシートより)

◆二千坪の大オープンセットが組まれた吉良邸討入りシーン、千代田城・松の廊下セットなど空前のスケールが展開!

◆スタッフ陣も超一流で万全の態勢!この大作をわずか35日間で撮り上げた事でも話題になった忠臣蔵の決定版!

 

 忠臣蔵と義士ものを撮ったことのない大映が、長谷川一夫さんをはじめのオール・スタアの勢ぞろいで、ワイド・カラーの『忠臣蔵』を撮影中です。長谷川一夫さんが初めて大石内蔵助に扮するほか、三十二年度ブルー・リボン大衆賞を得た渡辺邦男監督が初の大映でメガホンをとるなど初めてずくめ。京都スタジオへつめかけた東京勢は、なれない時代劇の衣裳やメーキャップに、テンヤワンヤの賑やかな撮影が行われています。(平凡58年4月号より)

 間違いのない娯楽もの

−何百年もつづいた興行−

 むかしから『忠臣蔵』は興行の独参湯(ドクジントウ)と呼ばれてきた。毒参湯とは、昔の気付け薬のことで、演劇や映画の興行が思わしくないときに、この『忠臣蔵』を出せば必ず当る。というほどの意味である。それほど日本人にとって老若男女、誰でも忠臣蔵の観客になれる、誰にとっても面白いものだ、という条件になっている。おそらく、この『忠臣蔵』を出して、今までにソンをした映画会社はどこにもないだろう。

 だが、それにしても、私個人の場合から云っても、よくも、これほど『忠臣蔵』ものをみてきたものだ、とほとほと感心させられることが多い。少くとも、小さいとき、やっと物心のつくころから、『忠臣蔵』はなじみの深いものだった。少年時代には年の暮になると、街の駄菓子屋で、切抜きの「義士の討入り」を買ってきて、ハサミとノリでこいつを仕立て上げると、清水一角奮戦の場が、ジオラマみたいに遠近感ができた飾り物になったりした。

 そのころは映画もまだ活動写真と呼ばれていたが、ぼくが初めて『忠臣蔵』の映画をみたのは、日活の尾上松之助が大石内蔵助になった『忠臣蔵、一力茶屋の場』という、たしか二巻もののカツドウ大写真だったと思う。この前、松竹の『忠臣蔵』でやった、お軽ののべ鏡という、内蔵助が祗園でオイランのお軽と遊んでいる場景だけを二巻にまとめたもので、云ってみれば、歌舞伎舞台を、そのままフィルムにうつし出した、といった程度の幼稚なものだった。これは大正六年のことだから、それからほぼ四十年間、映画の技術の進歩もさることながら、よくもこれほど、飽きも倦かれもせずに『忠臣蔵』をみてきたものだと感心させられる。

 日活は、その大正六年から、昭和十六年、戦時中の企業合同で各社が合体し、大映と改称されるまでに、大体一年に一本半くらいな程度に『忠臣蔵』を公開している。つまり四十五、六本くらいは世に出た勘定になるから、これが昔から各社でつくったものを数え上げてみると、おそらく五百本以上の『忠臣蔵』が戦前、戦後を通じて、日本人全体の娯楽になってきたものだろう思う。

 これを思うと、十代前後の男女から、六十代の男女ほぼ七千万人弱として、生涯『忠臣蔵』を何度か見た人々のことを思うと、この物語と日本人との関係は、まさに切っても切れない縁のものと、云うことができるだろう。

 大石良雄の人柄

−役者として生涯一度は−

 むかしから、俳優たちの合言葉に「人間、役者になったからには生涯一度は、大石内蔵助をやってみたい、と思わない男はないだろう」というのがあるそうだ。それほど、この大石という性格には、誰がみても、惚れぼれするような、人間的魅力があるらしい。

 それは第一に、人間としての貫禄の上に、この上なく堂々とした完成されたモノをみることができるからであろう。彼が切腹して果てたとき、実際の記録の上では四十四歳になっていて、人間としても、まさに円熟した年齢になっていて、俳優としては身分も地位もできた時代である。同じスタアでも、若手ではこの役はできかねる長谷川一夫も『忠臣蔵』にはじめて主演したときには、浅野になっている。

 実伝では大石とはどんな人だったか「大人名事典」によると、「徳川中期の義士、播磨赤穂藩の家老、良昭の子、良欽の孫、万治二年生。代々駆ろうの家柄で世禄は千五百石、通称を喜内という。父は早く没し、延宝五年十九歳の時祖父の家督を相続して家老見習となり、二十一歳で家老となった。通り名の内蔵助に改めたのものこの時である」

 大石はつまりオジイチャン子だったのだ。映画の上でもそうであるが、実際の大石の記録を調べてみても、彼がひどく清らかな人柄だったことは、赤穂瓦解のとき大石父子だけ、いわゆる分配金をうけとらなかった。この大石と対照して描かれている勘定方の責任者、今で云えば営業部長に当る大野九郎兵衛は、分配金をうけとった上に夜逃げをしている。家財道具一切をまとめて駈け落ちした。しかも、寝ている赤ん坊、つまり孫を忘れて行った、というので大変な物笑いタネになった。元禄期というのは、もう国内戦争がなくなり、侍が頽廃していたときで、現に、赤穂義士たちが最後に切腹するとき、その方法を誰も知らなかったので、大石が心配した話は記録に残っていることだが、それにしても家老職ともあろうものが夜逃げをすることさえ言語道断なのに、赤ん坊を忘れるとは何事ぞ!という訳だったんだろう。

 この分配金は一万六千四百両もあったそうで、今の金に直すと一億六千万円ばかり、大石はこのうちから、浅野家再興の運動資金として一万両うけとって、これを幕府の要所要所へばらまいて運動している。この「金銀請払帖」は現在までちゃんと保存されているそうだ。彼はこのうちから一文も私しなかったというから、よほど清廉の士だったのであろう。こういうところに、彼の人となりが自然に現われているような気がする。華美な元禄武士の中では、珍しい人物だったといっていいものだろう。

銘々伝のひとびと

−主税そのほか−

 この内蔵助と共に自刃した子供の大石主税もなかなか父親似の好青年だったらしい。なにしろ、死んだとき十六歳身の丈五尺七寸あった、と記録に残っているほどだから、このごろの少年たちとは比較にならなかったようだ。体も出来ていたし、武芸にもかなり長じていたようである。このことは討入りのときの模様をみてもよくわかる。切腹するときには、父の戒めの手紙(父は細川藩にあずけられ、子供は松山藩だったから)を刀に巻きつけて死に就いたそうである。なにしろ、今日のわれわれの考え方をもっていては、想像に絶するものがあるではないか。

 この主税をはじめとして、義士伝の人々には面白い話題のものが多く、だから、いわゆる「銘々伝」という形式の小説講談の類が次々と世に出るもとになった。もちろん、銘々伝はその半分以上は創作で、面白おかしく興味本位にできたものではあるが、大体に、その人柄に似合ったお話になっているところがご愛嬌であろう。もっとも堀部安兵衛などという人物は、生涯に二度敵討をしたということで、そのころの侍としては珍しい体験者だけにとくに人気者になり、この人物を独立させた映画も、おそらく『忠臣蔵』と同じくらいに人々に愛好されたものだ。ただし彼が大酒のみだったことは真っ赤なウソだったらしい。第一、有名な「のんべえの安さん」ばなしは当時の武士生活の常識を知っているものなら、あんなバカバナシはウソにきまっているとすぐわかるだろう。彼の場合など、ほとんど江戸生活で赤穂の地方生活はよく知らなかったらしい。安兵衛と細井広沢との友情はたいへん厚いものだったということだから、彼が武辺一点張りの人間ではなかったということもわかるだろう。

 同じ酒のみの伝説のあった赤垣源蔵も、これもまた大ウソだったらしい。誰でも知っている「徳利の別れ」という惜別の一席など、どうやら講談師の扇で叩き出されたもののようだ。ただし、この場景は、別に彼が酒のみでなくてもなり立つだろう。ぼくならば、どんな場合でも酒を固辞した赤垣が兄塩山なにがしのもとに別れに行き、兄が酒好きだったので一升さげて行ったところ、留守だと云われ、ひとりで生涯一度の大酒をする、てな話にしたい。どこかの義士宝物館に、むかし赤垣の使った徳利というのがおいてあったそうな。徳利の別れ、に使用したものである・・・なんて説明者が参観人に紹介している図はちょいとナンセンスでたのしい。赤垣は講談名前で、本姓は赤埴源三、号は重賢、塩山伊左衛門は実兄で、赤埴家に養子に行ったもの。三十五歳で切腹した。

 安兵衛、三十五歳、花も実もある美事な青年たちが、元禄十六年二月四日、花にさきがけて死んで行ったんだから、多くの人に惜しまれたのも無理なかったであろう。

記憶にのこる旧作

−松竹や日活での−

 ぼくの印象に残っている『忠臣蔵』は、昭和七年、松竹加茂で作った衣笠貞之助監督の『忠臣蔵』が最初である。それ以前に、マキノ省三監督がつくった昭和二年の大作があったが、これは撮影現場に立ち合っていない。

 衣笠さんの『忠臣蔵』も大作だった。このときのキャストを今みると、なかなか面白い。内蔵助は歌舞伎から阪東寿三郎を呼んできて長谷川一夫は、浅野内匠頭と大石沢右衛門の二役をやっている。高田浩吉が二十七歳の大石瀬左衛門として出演し、市川右太衛門が脇坂淡路守と垣見五郎兵衛の二役、斎藤達雄の不破数右衛門とか上山草人の吉良上野など、蒲田から手伝いにきた連中は不なれで、至極奇妙なものだった。女優陣では、田中絹代の八重とか川崎弘子の瑤泉院など、いまだに記憶にのこっている。

 このとき、京都新京極松竹座での試写会は空前の大盛況で、下加茂撮影所員はもちろん、その家族まで動員し、五-六百人の内輪の全部にみせたものだった。なにしろ、松竹座がハネてあとの全長二十巻の試写だったから、夜中の二時半ころまでかかり、時は十二月なかばであり、まず云うなれば一種の義士会の観を呈したものだ。

 その次は昭和十五年にマキノ雅弘監督がつくった日活(現大映京都)の『忠臣蔵』で、これも長かった、日活の、いまグランプリの金賞のおいてある場所に近いところに小さく粗末な試写室があって、そこで、大石になった阪東妻三郎たちと一緒に試写をみたのも、阪妻なき今となってみれば思い出になってしまった。ちょうど轟夕起子が大スタア時代で眼をわずらっていたときだったので、岡野金右衛門の眼病の娘になって出演していたなんぞ、一種の楽屋落ちみたようなものである。

 ちょっと型がわりの『忠臣蔵』は溝口健二監督が、前進座をつかってつくった『元禄忠臣蔵』である。これは原作が真山青果の戯曲で、忠臣蔵としては、一番史実に忠実らしく構成されていた。溝口作品としては、最大の金のかけ方で、ぼくは松の廊下の刃傷の場の撮影につき合ったが、このオープン・セットは目をみはらせるばかりに壮大豪華をきわめたものだった。もっとも、今になって思えば、今度の大映の、浅野切腹の田村邸や、松の廊下などに較べるとその規模の美しさはむかしの比ではない。とくに溝口作品は昭和十七年のことだから、そろそろ撮影用の物資も乏しくなりかけてきた時代で、その点苦しかったと製作部は歎いておった。

討入りの美々しさ

−元禄趣味のこと−

 『忠臣蔵』のクライマックスは、大石の南部坂雪の別れから討入りときまったものである。

 ところで、討入りだが、この前の松竹の『忠臣蔵』のときだけ、いわゆる山鹿流の陣太鼓をトウトウと打ちならすのはやめていたが、何十年もの間、討入りとなるとまずこの太鼓の音が皮切りだ。そして、お長屋らしいところに眠っていた清水一角だか小林平八郎だかの上杉の附け人が、ガバとはね起きて、自分の指を折りながら「さては赤穂の・・・」と義士の夜討ちを知る、という仕掛けになっているのだが、良識をもったものならば、隠密のうちに事を運ばなければならない夜討ち朝がけのたぐいに、前もって。これから忍び込むぞ、という先ぶれの太鼓を打ちならす訳があるまい。もちろん、この太鼓は、裏門への合図であり、義士四十六人の進退のためのものだったろうが、義士の遺品の記録をみると、大石は「呼子笛」をひとつ持っていたことがわかるから、するどく、短い間に聞こえる笛を使ったものだろう。

 義士が討入りのときに持っていた、いわゆる「押込み道具」の書き上げをみると

「一、槍十二筋、一、長刀二振、一、野太刀二振、一、斧ニ挺、一、げんのうニ挺、一、かけ矢六丁、一、竹梯子大小四挺、一、弓四張、一、大鋸ニ挺、一、金てこニ挺、てこニ挺、一、鉄槌ニ挺、一、かすがい六十本、一、かなづちニ挺」などとなっているから、その用意周到さがわかる。これと別に太鼓でなしに、ドラを一つ用意してあるが、これは討入りが終ったときに使うつもりだったらしい。

 吉良の屋敷の地図をみると、映画でみるほど広大なものじゃないようだ。北に武家屋敷、南に町屋をひかえ、東が表門、ここから大石方が乗り込み、西の裏門から主税を大将にして、すべて綱梯子を使っている。門番はあえなく一太刀でうたれ、すぐ開門して他の同志をひき入れ、その直後にまた閉め切った。

 外からのものを入れないためと、敵吉良の逃亡をふせぐためだったものだろう。

 だが、思えば雪の夜に、火事装束の揃いのユニフォームを一着に及び、総勢四十六人がなだれをうって討入った景観というものは、なるほど錦絵になり、物語になる素材にちがいない。大石はじめ、同志のめんめんは、古武士の魂をもつと同時に、派手な元禄期の人間たちに共通な心を持っていたであろう。その上、三ヶ月も経たないうちに死罪を命じられている。

 そのころ世上の取沙汰は、切腹はひどい仕打ちだ、とおこるもの、いや、切腹してこそ本懐であろう、と、納得するものいろいろあったが、日本人的考え方で、花と散った、という事実が、このみの悲愴感をそそったものだろうと思う。

 どうも、こういう事実が戦争中に、全滅の玉砕などに引用されたりしたのでは甚だ困ったことにはなるが。

 なにしろ『忠臣蔵』とは、日本人のこの上ないお好み献立であることは間違いない。(別冊近代映画「忠臣蔵」特集号58年4月より)

物 語★

 元禄十四年三月。

 江戸城下向の勅使接待役に当った播州赤穂城主浅野内匠頭は、日頃から武士道を時世遅れと軽蔑する指南役吉良上野介から、事毎に意地の悪い仕打ちを受けたが、近臣堀部安兵衛らの機転によって重大な過失を免れ、妻あぐりの言葉や国家老大石内蔵助の手紙によって慰められながら怒りを抑えて役目大切に日を過した。しかし、その最終日になって、許し難い侮辱を受けた内匠頭は、城中松の廊下でついに上野介に斬りつけたが、居合わせた梶川与惣兵衛に遮られて無念にも討ち損じた。

 幕府では、直ちに事件の処置を計ったが、上野介贔屓の老中筆頭柳沢出羽守は、目付役多門伝八郎、老中土屋相模守らの正論を押しきって、上野介は咎めなし、内匠頭は田村右京太夫邸で即日切腹と不公平な処分を下した。内匠頭は田村邸で上使多門伝八郎の情けで家臣片岡源右衛門に、国許の大石内蔵助へ悲痛な遺言を残し、従容と死についた。赤穂でこの悲報に接した内蔵助は、混乱する家中の意見をまとめ、籠城説から殉死説へと導き、志の固い士を判別してから、初めて仇討ちの意図を洩らし血盟の士を得るに至った。その中には、前髪の少年大石主税、矢頭右衛門七、また浪々中を馳せ参った不破数右衛門も加えられた。しかし内蔵助は順序として浅野家再興の策を立て、赤穂城受取りの脇坂淡路守を介してその嘆願書を幕府に差出し、内蔵助の人物に惚れた淡路守はこれを幕府に計った。しかし柳沢出羽守はこれをも一蹴してしまった。

 赤穂義士の復讐をおそれる上野介の実子越後米沢藩主上杉綱憲は、家老千坂兵部に命じて上野介の身辺を警戒させ、兵部は更に各方面に間者を放った。内蔵助は赤穂退去後、京都山科の地に落着いたが、更に浅野家再興嘆願の件をかねて江戸へ下がり内匠頭後室瑤泉院を訪れた。瑤泉院は侍女戸田局が内蔵助に仇討ちの志が見えぬと責めるのに反して、あくまで彼を信頼していた。内蔵助はその帰途早くも吉良方の刺客に襲われ、目付役多門伝八郎の助勢で事なきを得たが、その邸内で町人姿の岡野金右衛門に引き合わされて驚いた。伝八郎は刃傷事件以来、陰に陽に赤穂浪士を庇護し、金右衛門からそれを聞いた内蔵助は今更ながら伝八郎好意に感激した。一方、大石襲撃に失敗した千坂兵部は清水一角の報告によって並々ならぬ人物と知り、腹心の女るいを内蔵助の身辺に間者として送った。

 江戸へ集った急進派の堀部安兵衛らは、出来れば少人数でもと仇討ちを急いだが、内蔵助はこの人々に幕府を反省せしめるような大義の仇討ちをするには、浅野家再興の成否を待ってからではならぬと説くのだった。

 半年後−祇園一力茶屋で数多くの遊女と連日狂態を示す内蔵助の身辺に、犬侍と罵る浪人関根弥次郎、彼をかばう浮橋、苅藻らの太夫、鋭い眼を放つ仲居姿のるいなどがあった。内蔵助は浅野再興の望みが絶えたと知ると、突然浮橋らを身請けして山科へ連れ帰り、理由もなく妻のりくに離別を申渡した。長子主税のみを残してりくや幼いおくう、吉千代、大三郎らと共に山科を去る母のたかは、仏壇に内蔵助の新しい位牌を見出し、初めて知った彼の本心にりくと手をとり狂喜しては泣いた。るいは大石家下男岡平実は千坂の間者山岡平八郎から内蔵助を斬るべく指令を受けたが、心境の美しく澄んだ内蔵助をどうしても斬れなかった。平八郎は刺客を集めて内蔵助を襲い、主税たちの正義の剣に倒れた。かくて機は熟した。内蔵助をはじめ在京の同志は続々江戸へ出発した。この道中、近衛家用人垣見五郎兵衛は、自分の名をかたる偽者と対決したが、それを内蔵助と知ると、彼の苦衷に撃たれ、却って自ら偽者と名乗って、本当の手形まで彼に譲ってやった。

 その頃、江戸の同志たちも、小間物屋、うどんやなどに姿を変えて、仇の動静を探っていたが、吉良方でも必死の警戒を続け、しばしば赤穂浪士も危機におちいることさえあった。千坂兵部は更に、上野介が越後へ行くという噂を立てさせ、この行列を襲う赤穂浪士を一挙に葬る策を立てたが、これを看破した内蔵助は逸る同志を抑えて唯一人この偽の行列を見送った。兵部はそれと知ると、直ちに清水一角らの剣士に追わせたが、内蔵助の威厳に圧迫され、手出しの出来ぬまま、空しく引上げた。

 やがて、赤穂血盟の士四十七人は、神奈川の宿に、旅費に困って母を人質に残して駆けつけた矢頭右衛門七を最後に、全員江戸に到着し、決行の日は後十日に迫ったが、肝心の吉良屋敷の新しい絵図面だけがまだなかった。岡野金右衛門はそれまで同志の人たちから、彼を恋する大工政五郎の娘お鈴を利用してその絵図を手に入れるよう責められていたが、遂に決意してお鈴に当った。お鈴は小間物屋の番頭と思っていた金右衛門を初めて赤穂浪士の一人と覚ったが、方便のためだけか、恋してくれているのかと彼に迫って、男の真情を知ると嬉し泣きに泣いてその望みに応じた。父の政五郎もまたそれを知ると、金右衛門の名も聞かず、来世で娘と添ってくれと頼んでやるのだった。

 江戸へ帰ったるいは、再び兵部の命令で心進まぬながら、内蔵助の宿を偵察に行ったが、今は内蔵助たちの美しい心と姿に打たれた彼女は逆に吉良家茶会の日を十四日と知らせ、その本望を祈った。その帰途、内蔵助を斬る気で来た清水一角と同志大高源吾の出会頭の斬合いの中へ入り、危って一角の刀に倒れたるいは、いまわの際にも一角に内蔵助の所在を偽った。るいの好意とその最期を感激の涙で聞いた内蔵助は、ついに十二月十四日討入決行の檄を飛ばし、同志の士気は愈々奮い立った。

 その日、十四日。内蔵助はそれとなく今生の暇乞いに瑤泉院を訪れたが、間者の耳目を警戒して、飽くまで復讐の志を洩らさず、失望の涙にくれる瑤泉院や戸田局を後に、邸を辞した。また同じ頃、同志の一人赤垣源蔵も実兄塩山伊左衛門の留守宅を訪い、下女お杉を相手に冗談口をたたきながらも、兄の衣類を前に人知れず別れを告げて飄々と去って行った。勝田新左衛門もまた、実家に預けた妻八重と幼児に別れを告げに来たが、八重の父大竹重兵衛は新左衛門が他家へ仕官すると聞いて激怒して罵るのだった。

 夜も更けて瑤泉院は、侍女紅梅が盗み出そうとした内蔵助の歌日記こそ一味の連判状であることを発見して、内蔵助の苦衷に打たれた。その頃、そば屋の二階で勢揃いした赤穂浪士四十七人は、表門裏門の二手に分れ内蔵助の鮮やかな采配下、折からの白雪を蹴立てて本所吉良屋敷へ乱入した。乱闘数刻-ついに夜明け前ごろ、間十次郎がと武林唯七が恨み重なる上野介を炭小屋に発見、内蔵助は内匠頭切腹の短刀でその止めを刺すことが出来た。

 赤穂義士の快挙は時を移さず江戸中の評判となり、大竹重兵衛はその瓦版に婿新左衛門の名を発見して狂喜し、千坂兵部は明らかに敗北を意識した。また塩山伊左衛門も下女のお杉を引揚げの行列の中へ弟源蔵を探しにやらせ、お鈴は恋人の姿を行列の中に発見し、岡野から渡された名札を握りしめて凝然と立ちつくした。一行が両国橋に差しかかった時、大目付多門伝八郎は、内蔵助に引揚げの道筋を教え、役目をはなれて、心からの喜びを伝えた。その内蔵助が白雪の路上で発見したものは、戸田局と腰元みどりに付き添われた一挺の駕篭だった。中には、白衣に身を包んだ瑤泉院が、涙に濡れて合掌していたのである。(公開当時のプレスシートより)

 

 

[映画評]

渡辺監督は、初顔合せの雷蔵にすっかりほれこんで、彼の演技指導は特に念入り。彼の気分の高潮した瞬間を撮るために、テスト中でも、とたんにハイ本番!と声がかかるという工合で、一カット一カットに情感が盛りあがるという行き方に、「渡辺さんはただ単なる早撮りの名人監督なんてものじゃないね。大した演出の名人だよ」と好評サクサク。雷蔵の内匠頭はけだし近年の名作になっているだろうと専ら噂されている。(大阪日日 58年2月16日より)

加うるに豪華なスター陣で、けんらんそのものである男優陣でもこれに比べて見劣りするものではないが、女優陣の華やかさは他に類を見ない。両者の調和によるこの忠臣蔵はそれだけでも見ものである。長谷川一夫の新解釈の内蔵助もそれなりに見苦しくはなく、市川雷蔵の内匠頭は天下一品だし、山本富士子の瑤泉院、京マチ子のおるい、若尾文子のお鈴も適役。その他の一般スター、それぞれ一応のしどころを演らせて楽しませてくれる。大衆忠臣蔵としてはなかなか面白く出来ている。(大阪日日 58年4月3日より)

 武士の鑑?忠君愛国?権力への反抗?死の美学?時代時代に読み継がれた人間ドラマ。それが忠臣蔵ではないか。

 元禄の泰平のしじまを破った赤穂事件が、いわゆる“忠臣蔵”として大衆の間に定着するのは、竹田出雲らの人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』が寛延元(1748)年大坂の竹本座で大当たりをとってからだといわれている。“仮名手本”はいろは四十七文字が義士の数と一致することから由来し、蔵は芝居では大星由良之助が主役だが、史実では大石内蔵助であることを暗にほのめかしているといわれる。

 これ以後、忠臣蔵といえば、日本人の国民的感情と分かち難く結びついた事件としてあらゆるメディアを通じて大衆の夢を育むことになるのだが、義士たちが本懐を遂げるまでを描く「本伝」、義士一人一人の挿話を描く「銘々伝」、義挙に協力した人々を描く「外伝」等、様々な物語が広がっていく点に特色があるといえるだろう。

 近年では、森村誠一が、忠臣蔵=人間蔵の面白さを前面に押し出しつつも、日本人の精神の素地として生き続ける忠臣思想や集団愛との対決のつもりで書いたという大作『忠臣蔵』(昭和59〜61)をはじめ、討入の桧舞台からドロップ・アウトした男たちのその後を描いた『刺客の花道』(昭和62)や、敗者の側にスポットを当てた『吉良忠臣蔵』(昭和63)を立て続けに発表、オーソドックスな素材に新しい視点を盛り込むことに成功している。

 更に、池宮彰一郎が書き下した『四十七人の刺客』(平成4)は、忠臣蔵作品の最新作でありながら、正しく決定打。この作品の斬新さは、四十七士を義士でもなく浪士でもなく、刺客、すなわち、暗殺者としてことにあろう。赤穂の財政を磐石の安きにつけるため、自らを賢愚定まらぬ韜晦の淵に置き、侍の裏も表も知り尽くした上でなおかつ武門に殉じようとする死の演出者大石内蔵助 - その存在は真に命の愛おしさを知る者だけが最高の死に場所を用意出来るという大いなる矛盾を孕みつつも、彼が吉良・上杉方に突き付けたのは、正に謀略に次ぐ謀略、その凄まじいまでの権謀術策の応酬の中から、いかに討つか、<刺客>というテーマが浮かび上ってくるのである。

 ここで『四十七人の刺客』に至るまでの様々な諸作をふり返ると、内蔵助の人間像にはじめて近代的な解釈を施した芥川竜之介『或る日の大石内蔵助』(大正6)を筆頭に、義士を浪士と改め、作品執筆当時の社会の歪みを元禄期のそれにダブらせ、ニヒル剣客堀田隼人の眼から赤穂事件を捉えた大仏次郎『赤穂浪士』(昭和2〜3)、四十七士を武士道の権化から人間として解放した吉川英治『新篇忠臣蔵』(昭和10)、浅野と吉良の確執の原因を塩をめぐる争いに求めた海音寺潮五郎『大石良雄』(昭和19)等があり、ちょうど同時期、真山青果が「大石最後の一日」を皮切りに、現代版『仮名手本忠臣蔵』としてくり返し上演されることになる大作『元禄忠臣蔵』(昭和9〜17)を書き継いでいったことも忘れられない。

 この他にも、戦前では、野上弥生子『大石良雄』(大正15)、白井喬二『元禄快挙』(大正4〜15)、本山荻舟『忠臣蔵八景』(大正15〜昭和2)、森田草平『吉良家の人々』『四十八人目』(昭和4)、小島政二郎『新版義士銘々伝』(昭和5〜6)、菊池寛『吉良上野の立場』(昭和6)、三上於菟吉『赤穂義士』(昭和6)、矢田挿雲『定本忠臣蔵』(昭和10〜15)、邦枝完二『女忠臣蔵』(昭和12)、海音寺潮五郎『赤穂浪士伝』(昭和15〜16)等がある。

 戦後では、大仏次郎『四十八人目の男』(昭和26)、山田風太郎『妖説忠臣蔵』(昭和29)、舟橋聖一『新・忠臣蔵』(昭和29〜36)、五味康祐『薄桜記』(昭和33〜34)、尾崎士郎『吉良の男』『吉良の系譜』(昭和35)、池波正太郎『編笠十兵衛』(昭和44〜45)、南條範夫『元禄太平記』(昭和50)、柴田錬三郎『柴錬忠臣蔵復讎四十七士』(昭和51〜53)、井上ひさし『不忠臣蔵』(昭和60)等がある。(別冊太陽 時代小説のヒーロー100 縄田一男より)

 忠臣蔵は日本映画創成期から時代劇のドル箱的存在であり、明治期の歌舞伎を実写した作品から、尾上松之助主演の「忠臣蔵」(大正15、日活)を経て、マキノ省三生誕三十周年として製作され、完成寸前に失火のため後半部分を焼失したという挿話のある「実録忠臣蔵」(昭和3、マキノ御室)、更には、衣笠貞之助監督の大作「忠臣蔵」(昭和7)等により、オールスターキャストで製作されるのが約束ごととなった。その中で、戦前作品として印象に残るのは、阪妻、千恵蔵、アラカンの顔合わせつくられた「忠臣蔵」(天の巻、地の巻)(昭和13、日活)と、溝口健二が真山青果の原作を徹底したリアリズムで演出、討入場面のない忠臣蔵として有名な、河原崎長十郎以下、前進座総出演の「元禄忠臣蔵(前後篇)」(昭和15〜16、興亜)であろう。

 戦後、最も多く忠臣蔵を製作したのは時代劇王国の名を欲しいままにした東映で、オールスター映画だけでも3回、その中でも最も注目すべきは大仏次郎原作の「赤穂浪士」(昭和31)で、大石を演じたのは右太衛門の抑えた演技が印象的。この他、松本幸四郎(先代)主演による昭和29年東宝作品、長谷川一夫主演による33年大映作品がある。

 義士銘々伝を描いた作品では戦前、戦後を問わず、堀部安兵衛を扱ったものが多く、大河内、阪妻、アラカン、黒川弥太郎らが演じ、異色の外伝として、雷蔵、勝新が共演した「薄桜記」(昭和34、大映)がある。また「ギャング忠臣蔵」(昭和38、東映)等のパロディも多く作られた。(別冊太陽 時代小説のヒーロー100 縄田一男より)

 海音潮次郎『赤穂浪士伝』(中公文庫)、山田風太郎『妖説忠臣蔵』(集英社文庫)、津本陽『新・忠臣蔵』(光文社)、五味康祐『薄桜記』(新潮文庫)、柴田錬三郎『裏返し忠臣蔵』(文春文庫、春陽文庫、富士見時代小説文庫)『柴錬忠臣蔵 復讎四十七士』(文芸春秋社)、吉川英治『新編忠臣蔵』(講談社・吉川英治文庫)、森村誠一『忠臣蔵』(角川文庫)『刺客の花道』(文春文庫)『吉良忠臣蔵』(角川文庫)、大仏次郎『四十八人目の刺客』(中公文庫)、池宮彰一郎『四十八人の刺客』(新潮社)、芥川竜之介『或る日の大石内蔵之助』(岩波文庫)、真山青果『元禄忠臣蔵』(岩波文庫)、池波正太郎『編笠十兵衛』(新潮文庫)、井上ひさし『不忠臣蔵』(集英社文庫)、南條範夫『元禄太平記』(徳間文庫)等で読める。 

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