「妹背山道行」に関して近頃興味深い挿話が伝わっている。この二月に新橋演舞場で梅幸がお三輪を勤めるについて、井上流でやりたいから指導を願いたい旨の申入れが井上の方へあった。これは私共(花友会)が昭和二十二年の春東京で井上流紹介の公演を持った時、やはりこの道行が出て、その芸術的感銘度の高さが専門家達を驚倒させたことであったが、その印象が忘れられず、梅幸がこのような希望を持つに至ったのであろう。特に六代目菊五郎の技術的根底を見失って、単にその写実的形骸のみを追っている六代目一座の後継者達の間から起った希望である所に、この出来事の意義がある。

 ところが諸種の事情から井上流の指導を受けることが不可能となったので、尾上菊之丞が井上流の振を見覚えでつづくり合せて、それは結局似ても似つかぬものになり、二三の型が井上の真似事だということを想起させるにとどまってしまった。何となれば、井上流の舞が観衆を打ったのは、決して型そのものの優秀のみの故ではなく、勿論型も二代目八千代が当時の人形からとり入れたすぐれたものではあったが、それにもまして、井上流の様式が、その人形を踏まえ、人形になりきる事を第一義とした表現様式が、そのような制約を踰えて打ち出される表現内容が、それこそが始めて人を打つのであって、そのような潜行する芸術的規矩を忘れた踊りは、如何にその型そのものを真似て見たところで、決して人を打つものではあり得ない。これは今日の歌舞伎劇の悪自然主義的写実芸術乃至は単純なる解釈上の合理主義の芸術的敗退を物語る一挿話なのである。

 制約の深いところに表現は芸術にまで高まるのであり、古典劇の様式の問題はこの点に於いて意義づけられねばならず、様式美の問題の本質も実にこの点に存するのであり、今日それが論せざるように、決して単純な感性の世界の問題として解決さるべきではなく、この意味に於てやはり深く知性の線に結びついているのである。このような反省を私は「妹背山」を通じて、私の若い門弟共に会得させ、体得させたいと考えている。

 「勧進帳」では、この劇の創成者達の真意に分け入って、出来る限り能楽の方へ歌舞伎をシワヨセしたい。歌舞伎の勧進帳はあくまでも歌舞伎であればよいので、能を真似る必要はないというような事をいう若い役者も居るようであるが、これ以上の芸術の本質を弁えぬ愚論はない。勧進帳はいくら能の真似をしたって、決して歌舞伎でなくなりはしない。それほどこの劇の演出者達は巧妙に安宅を歌舞伎劇化してしまっているのである。

 初演者の七代目団十郎も勿論そうであったのであろうが、殊に完成者の九代目団十郎は、幼少から山内容堂侯の寵愛を受け、山内侯に能をうんとしこまれ、安宅などは始終稽古を受けていた。九代目は山内侯に指導と鷺伝右衛門の協力とによって勧進帳を今日の形態にまで作り上げたのであった。唯鷺が狂言方であったこと、能楽師一般の事大思想等がたたって、更に又九代目完成後、歌舞伎の勧進帳として伝承されたため、形式が崩れるに至った事、などのために、今日の勧進帳が相当混乱を来たしていることは事実である。然しそもそも能を歌舞伎の要素としてとり入れたことは、歌舞伎劇の表現を、制約を加重することによって、より一層芸術的に高度ならしめようとの意図に出て、唯それが能楽をとりまく封建的空気のため中途半端になったというまでであったという事は、明白な事実であるから、そのような先人の意図は、これを後学が発展せしむることはその責任であると考えてよい。

 歌舞伎の表現技法や荒事の骨法を、能楽の持つ洗練された様式にまで芸術化することが勧進帳の狙いであり、例えば元禄見得の扱い一つでも、その心得がなければ、正しく同一様式の下に統一されたものとは言い得ないであろう。

 歌舞伎の勧進帳は、能の安宅と、内容的にな成立期の時代精神を反映して、同一ではないけれど、歌舞伎側の芸術上の狙いは実にこの点に存したことを先ず理解せねば、勧進帳の様式上の取り扱い方法の結論は、いつまで経っても出来ないであろう。幸いにして私は戦争中から能楽と深い関連を、断弦会運動を通じて持ち得たから、今日能楽と歌舞伎との交流点に於ける存在として、まず最も便宜の地位在るところからして、この難問題の実際的解決の衝に当ってみようと決意した次第であった。

 九代目の初演二十二歳と比して、今日の鶴之助決して若すぎるということはない。まして歌舞伎側の指導者に、松本長以来能と関係深い蓑助君を得たのだから、又とない絶好の機会と称すべきであろう。

    クリック!!⇒