靖十郎 今度の演出は何時もの興行と違うのだが、見に来てくれる人にも、その様によくその意味を含めておいて来て頂かなくてはいけないと思います。前回の野崎村の幕切れでも、見物の中にはお光が久松を見送ってボーとしているよりも、従来の様に、久作にすがりついて泣く方が芝居として面白いと云っている人もありました。失恋したら、武智先生の選出の様に泣く力もなく茫然としているのが本当だとは思いますが・・・。

小金吾 オヤオヤ先程と話が随分違って来ましたよ。(一同苦笑)

 それじゃ皆さんも、云いにくいだろうと思いますから、話題を変えて、今後の芝居に武智さんの様な演出家が必要かどうかについて、考えを述べて下さい。

延二郎 それは勿論いて頂かないと困ります。今までの芝居の様に各々がまちまちに習って来た事をやっていたのでは面白い芝居が出来るわけがありません。特に、こちらは東京と違って劇団組織でないだけに、演出家の代りをする座頭と云うのがないのですから、絶対必要だと思います。

小金吾 現在では延二郎さんの延若さんなんかが、その位置にいられるのだが御病気でもあり、仮に病気でなかったにしろ、こんな非劇団的な組織では、翌月は誰の相手になるのかわからないのですから、真剣な演出家になって頂く事は望み得ないでしょう。

太郎 今の芝居でも、演出家がいられるのもありますが、役者の云いなりになる様な演出家ではなんにもならないと思います。

鶴之助 僕も今後の歌舞伎には絶対頭脳的な演出家が必要だと思います。演技の方は先輩の方から教えて頂けるのですから。

延二郎 そうなると、矢張り演出家は武智先生に限ると云う事になります。(武智先生にいとも丁寧に御辞儀をして)先生これで御気に入りましたか。(笑)

関 ではこの辺で武智先生に御退出願いましょう。

(一同異口同音にせきたてるので、武智先生も名残りおしげに?退出)

 武智さんが行かれた事ですし、反動的に武智歌舞伎に対する不満と行きましょうか。

鶴之助 私などは正直なところ、不満と云う様なところまで行ってない様に思います。そりゃ、稽古中不平を云う事もありますが、それは単なるその場限りの不平に過ぎません。

延二郎 それは雨が降っていやだとブリブリ云うが、お天気になると忘れてしまうのと同じ様なものです。

 それでは武智歌舞伎に対する希望を聞かして下さい。

小金吾 この実験劇場のこころみは、たしかに芸術的には結構なものだと思いますが、これを一般興行とする時には余程問題だと思います。

靖十郎 私もその点、歌舞伎は絶対に大衆と直結していなければならないと思います。その大衆はお金を出して歌舞伎を見に来ているので、そのほとんどが研究の為に来ているのではないと思いますから、あくまで歌舞伎は娯楽で絶対面白くないといけないと思います。

鯉昇 結局歌舞伎を面白くする為には盛り上る波を多くしなければならないと思います。

靖十郎 大体近頃の見物の方には、何遍も同じ狂言を見た通人と云うものがほとんどいないのですから、何だかむずかしくて分り難いと云う様な観念を植えつけてしまった今までの歌舞伎を面白くするという事は、つまりは新しい歌舞伎を作る事だと考えます。

太郎 専門的に見れば少々誇張的演技であり、その為にすきが出来るにしろ、一般大衆に見せて成功であればいいのではないかと思います。

靖十郎 うちの師匠(吉右衛門)の熊谷でも、武智先生に云わせると、愚劣な演技だと云われるし、この前の鶴之助さんの熊谷の演出が正しいということは、あの時一緒の舞台に出て武智先生から師匠の悪いところを指摘されるのを聞いてよく得心が行きましたが、しかし師匠の熊谷という云うものは、みんなが感動して、何遍やってもお金を出して見に行くのですし、客も得心なのですから、師匠の熊谷というものは、鶴之助さんの熊谷と共に存在していいものだと思います。

 それは同感です。私の鶴之助君の熊谷を見て、始終間の正しい、緊張した熊谷を見て感心し、今後吉右衛門の熊谷を見たらさぞ空虚をかんじるだろうとおもっていましたが、先日吉右衛門の熊谷を見ますと、成程武智さんの云われる様に、間のぬけるところが目につきましたが、その目についた瞬間、その間のぬけたものをカバーするだけの演技をしているので、次の瞬間には、吉右衛門の芸の立派さだけが残るのでした。ここで武智歌舞伎についての最後の結論をつけますと、結局、武智歌舞伎も吉右衛門歌舞伎も存在することになりますね。

延二郎 全くそうです。だから今後の歌舞伎に絶対演出家は必要ですが、演出家は武智先生であらねばならぬと云う事はなく、吉右衛門式、羽左衛門式、菊五郎式といろんな演出があってよいので、ただ大切な事は、それを統一する演出者が必要であると云う事です。