良くできた文芸作品が歴史上の人物を生き生きと形作ると、それが史実へと転化してしまう例は多くある。

 越前二代藩主松平忠直。徳川家康の孫で大坂夏の陣で大手柄をあげたのに、勲功と血脈に見合う扱いを受けず、最後は幕府により大分に配流された。ここまでは史実だが、度外れた暴君で狂的な乱行を重ね、それを幕府がとがめた、となると「忠直卿行状記」などによる“文学的史実”だ。

 「困ったもんです。あんなふうに書いて・・・。影響が大きすぎる」。福井城から南へ十キロほど下った鯖江市にある長久寺の橘昭泰住職の声には怒りすら感じられる。

 鳥羽野と呼ぶこの辺りは「孤老夜盗の住む荒地」であったのを忠直が開拓し、入植した領民を手厚く保護した土地だ。領民は忠直を大分配流後も仁君と慕い続け、配所で営まれた三回忌に参列した領民代表が持ち帰った墓所の土を祀り、供養塔を建てた。今も本堂に忠直の彩色木像を安置し、供養塔も健在だ。

 六年前、忠直の没後三百五十年を記念する行事が行われた。福井市の文化団体役員としてシンポジュウムなどに携わった宮下一志さんは「フィクションや伝説を実際の姿に戻そうという試み。大変良かった。四百年祭も、ちゃんとやって頂けるだろう」と言う。

 戦災と大地震に相次いで見舞われた福井市内には、江戸時代からの建造物はほとんどない。わずかに、内堀に囲まれた福井城本丸の外構が往時をしのばせるだけである。

 小説では、城内で催した槍の試合の後に忠直が臣下と自分の間に「虚偽の幕が、かかっていて」「臣下が忠直卿を人間扱いにしない」ことに気付き、「鬱懐」が生じて、それが乱行に発展する。今、本丸天守跡の草地に立っても、忠直の鬱懐に思いを致すよすがには、とてもならない。

 それでも地元では、長久寺や三百五十年祭に見るとおり、忠直の昔がどこかで現代とつながっている。記念シンポでパネリストを務めた福井市立歴史博物館学芸員の印牧信明さんはこう話す。

 「父の結城康秀がもう少し生き、忠直が幼くして藩主を継がずにすんでいたら、越前が石高を減らされることもなく、福井は都市としてもっと発展していたと思う。忠直の時代は、今の福井に微妙な影をおとしています」(編集委員 安岡崇志)

 

 1918年に発表した「忠直卿行状記」は、後に文芸春秋社を創業し“文壇の大御所”となる作家の出世作と位置づけられる。

 吉川英治の名を借り自ら筆を執ったとされる新潮文庫版の解説には“封建主義が、民衆を不幸にしたと同時に、その君主達の人間生活をゆがめていた事実を書いた” “しかし、その描き方や構想は、やや粗雑な嫌いがある”と書かれている。

 粗雑という言葉に、現在の福井の人たちが感じている「忠直の人物像、史実を曲げてしまった」ことを自認する意を込めたかどうか、そこは分からない。(作品の引用は新潮文庫)

(日本経済新聞 12/03/06)

長久寺宝篋印塔(伝承:松平忠直供養塔)

所在地:福井県鯖江市神明町 長久寺

 福井藩二代藩主松平忠直は、徳川家康の次子・結城秀康の子で、菊池寛の小説「忠直卿行状記」などの文学作品では希代の暴君とされ、史実でも乱行の廉をもって豊後に配流となった。

 もっとも、忠直のパーソナリティのうち暴君の面については、後世の脚色が多いようで、忠直が鯖江の鳥羽野地区の開発事業に尽力したことから、地元では名君として慕われたようである。

 それを示すものが、鯖江の長久寺にある忠直の供養塔であり、これは地元の者が忠直の遺徳を偲んで造立したものと言う。

 供養塔は宝篋印塔であるが、基礎の部分を厨子のように造って内部に五輪塔を納める特異な形式である。(東海・北陸地方の石造物Gより)