雷蔵が私を仕事に使える様に使育したんだ。勝も俳優なら、画家の協力者の一人ぐらい祇園のさかり場でまく金で養え。苦労して、雷兄と考案した材料(刺青が、入浴シーンでも消えないよう工夫した絵具)で勝の仕事はできない。雷兄への義理がある。金もうけになるなら何でもと云う小生ではないわい。大映が無理を云うなら、大映をやめると云った。
雷兄の仕事だけにして呉れ。雷兄の仕事の事なら、下駄の裏にもでも絵を書く。然し、雷兄以外の主役・俳優は断ると云った。雷兄はそれを聞いて、制作部の者に、赤松さんがどうしても承知してくれないのか、では私が頼むと云って、TELということになったわけだ。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)
彼が死ぬる前、昭和43年秋も終わりの頃、小生の姓名判断をして呉れた。素晴らしい良い名前だ。55過ぎた時は、素晴しい人生があると云って・・・.。ほめて呉れた私の名前をじっと見つめると、彼を思い出す。彼は丁寧にかく数を調べて割出す、その真剣な姿を思い出します。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)
最後の作品(昭和44年2月22日、『博徒一代血祭り不動』)も一緒、「赤松さん来年明けたら、もう一度入院して体を立て直してきます。秋頃には会いましょう。そしてもりもりやりますよ」と云って別れたのが、此の世の別れでした。「テアトロ 鏑矢の旗上る」も協力する覚悟でいたのに・・・あゝ何と云う悲しい事だ。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)
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