雷蔵の思い出
-花のある侍、というネーミングに嘘はない。格調高く異彩だった役者市川雷蔵への追慕の念は日を重ねてますます昂まり、かなしみがあらたまっています。-
これは雷蔵死後一年目に発行されたノーベル書房刊「侍・市川雷蔵その人と芸」(昭和45年7月17日発行)の山本一哉氏のあとがきの始めの部分です。一周忌に出された追悼集だけに、読む者の胸に迫ってくる言葉に溢れています。そこで、この追悼集から雷蔵に対する様々の人の思い出を拾ってみました。
また、・・・ほかにも雷蔵の死後に発表された彼への追悼の思いや、思い出を拾ってみました。
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71年7月に発売された 大映株式会社=企画・制作 日本コロムビア株式会社=製造・発売「人間シリーズ〔侍(さむらい)、市川雷蔵 その人と芸〕」から
『雷蔵は生きている』
昭和44年7月17日、市川雷蔵は37歳の若さで不帰の客となった。だが、その死顔は誰にも見せなかった。不治の業苦“癌”に蝕まれた肉体を、生前の知人にさらすことを拒んだ雷蔵の遺志による。美しい二枚目俳優のイメージを、生死の境界で守りぬいた見事な役者魂というべきであろう。役者の鑑ともいうべき役者の最後 - 市川雷蔵は死してなお永遠の美男スターとして生きているのだ。
雷蔵の死は映画界に深刻なショックを与えた。ある人は「時代劇の最後の灯が消えた」と極論して、伝統ある時代劇が重大な危機に直面したことを指摘した。たしかに、年ごとに製作本数が減少し、孤塁化していく時代劇にとって、市川雷蔵こそ伝統の砦を守る最後のサムライであったといえる。時代劇のプリンス、あるいは貴公子スターと形容された端正なマスクに、雷蔵はときに虚無と孤独の影を濃く宿していた。それは出生から生い立ちにまつわる影であったと考えられる。
生後わずか六ヶ月で生母の手を離れ、市川九団次の養子として成人するが、19歳で三番目の父母につかえることになる。この最後の養子縁組で、関西歌舞伎の名門故市川寿海丈の慈愛を一身に浴びたことが、俳優市川雷蔵の存在を決定づけたのだが、世俗的な意味での家庭の味には、ついに無縁な青春であったといえる。後年、結婚して一男二女の父となり、あの辛辣な毒舌家が、一転してごく平凡な家庭人に徹しきろうとしたのは、満たされぬ青春はの埋め合わせであったのかもしれない。しかし仕事に対しては峻厳と毒舌で鳴る雷蔵と、よき夫でありよき父であった雷蔵 - この二面性は彼の場合、全く矛盾を感じさせない。なぜなら、スクリーンでまばゆいばかりの光彩を放つ二枚目はあくまで虚像であり、よき俳優の実生活というのは“影”にすぎないからだ。ある俳優の虚像と実像、光と影のコントラストが際立っていれば、その俳優は演技に花を持っていることになる。まさに市川雷蔵は映画・演劇を通じて他に類を見ない華麗な花を持った役者であった。
映画俳優は一代かぎりという。歌舞伎の世界の下づみでたたきあげ、スクリーンで絢爛と咲き誇った雷蔵の芸が、他人に伝承されるはずもないが、それだけに雷蔵亡きいまはことさらに貴重に思われる。養父市川寿海ばりの美しい口跡と格調高い名演技 - ここに収録したものは、その偉大な業績のほんの一部にすぎないが、あの端正なマスクをほうふつさせる名場面ばかり。いまさらのように37歳という若さが惜しまれる。