「あなたの時代劇で、『赤い陣羽織』は、中村勘三郎という歌舞伎の様式にこりかたまった俳優を、逆に喜劇的に使って、その形だけの様式を、形だけの殿様の権威の表現にうまく一致させたと思うんですが、今度は、やはり中心は、五右衛門の苦悩にあるのでしょう。そうすると、どういう風に時代劇の様式と整調させられるのですか」

 「ぼくは、今度の作品では、できるだけ時代劇の様式を破って、自然なありのままの人間に復元したいのです。もちろん、様式といいますか、或いは約束といいますか、ある程度の型は残しますが、人間のまぎれもない素顔をのぞかせるだけのことはやりたいと思っています。なにしろアクションが多いので、どこまで、ぼくのねらいが出るか、率直にいって心配なんですがネ」

 「なんでも、忍術というものの真実の姿、つまりその合理的な方法手段を史実どおりに描かれるそうですが、それもリアルな方向を指し示すためなんですか」

 「まあそうです。しかしそういうのは、形だけのリアリズムで、やはりぼくとしては、五右衛門の自由への必死の脱出を主点に、その苦悩に、観客が共感を寄せるように描きたいです」

 セットは、伊藤雄之助が、藤林長門守に扮し、板壁でかこまれた狭い居室で、浦路洋子の扮する侍女ヒノナの酌を受けながら、伊達三郎の孫太夫に、信長が必ず伊賀を襲うと怒りの言葉をはげしく投げかけているシーンが演じられていた。白髪を総髪にした長門守が盃を受けるところを、前からと、斜め横から、さらに正面のアップと極めてオーソドックスなカット分けで、奇手を弄するでなく正確な四つ相撲の力で押してゆく描き方である。あとで、伊藤雄之助氏に「アップが多いのじゃないですか」ときくと彼は軽くうなずいていた。

 

 しかし、この短いシーンだけの印象では、俳優の演技は、かなり自然で、山本氏のいったように時代劇の様式のかたくるしさはなかった。山本薩夫氏は、じっくりと俳優の演技の自発的燃焼を待つ方らしい。リハーサル中も、おだやかな笑顔を続け、それがきびしくひきしまるのは、本番の間だけである。

 数日あと、主演者の雷蔵氏が出るときいて、またセットをのぞいたが、今度は伊藤氏が百地三太夫とあって、禿頭の老人の扮装で、簡単な忍びの者の扮装 - これが兵隊の制服にあたるのだが、このとき黒づくめでなく、青黒い着物をきていた。多分礼装なのだろう - をした雷蔵氏に、手裏剣を投げるシーンだった。父と愛人の死の真相を知って憤った五右衛門が三太夫に忍者をやめるとつめよると、三太夫が、冷たく「一生おれの手から逃げられるものか」と笑う場面である。

 市川雷蔵氏も、出来るかぎり非人間的境遇における人間性の回復を演じたいと、力強く抱負をかたった。「じゃ、君の『炎上』や、『破戒』の時代劇版ですね」というと、いささか苦笑していた。

 監督が心配しているのと同じで、アクション過剰が気になるらしい。

 この点は、伊藤雄之助氏も同じような気がかりを語っていたが、この映画の製作の重要なスタッフが、そろってそのシナリオの弱点に注意の目をそそいでいることはひるがえって考えれば、心強い。ぼくの印象では、山本監督は、かなりシナリオに忠実で、優れた脚本と拙い脚本とでは、例えば、『荷車の歌』と『雪崩』のごとく、大差のある人だが、多分今度は、拙いとはいえぬまでもアクション本位のシナリオそ、この三人の熱意で、時代劇の『真空地帯』の高さまで昇華させてくれるのだろう。またそれを切に期待する。

 なお、この映画には、時代劇初出演の岸田今日子氏が登場する。時間がなかったので、演技には接しなかったが、出演を待つ短い間を割いてもらって話をきいた。

 イノネの性格などについての彼女の講釈をきかせてもらったが、それより、「山本さんって、一番優しい監督だわ」といった一語が忘れられない。実際、どこからあの粘着力に富むはげしさがでるか予想もできない、温顔の彼である。それだけに成功を祈っている。

 伊藤雄之助(左)と市川雷蔵

 

 

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