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『新選組始末記』『新選組血風録』 近藤勇・土方歳三・沖田総司・山崎烝

新選組研究の古典となった、「新選組三部作」

新選組人物伝・異聞

 新選組や近藤勇は子どものころから知っていたが、ちゃんばらの強い正義の集団といった程度の、曖昧なものでしかなかった。勤皇の志士の敵ということがわかったのは、「鞍馬天狗」を読んでからである。“近藤さん”と天狗に敬語で呼ばれる宿敵、近藤勇は、決して志士たちをだまし討ちなどにしない。武士道を大切にする佐幕派、ということだった。それでいて暴力団のような隊員が大勢いるらしい新選組の頭領であるとは、変といえば変だったが。

 新選組について正確な知識を得たのは、子母澤寛の「新選組始末記」(中央公論社)によってである。昭和41(1966)年ごろ、編集者としての必要から、長谷川伸の「荒木又右衛門」と前後して読んだ。

 映画は片岡千恵蔵が近藤に扮する、白井喬二原作『壮烈新選組・幕末の動乱』(昭和35年東映、比佐芳武脚本、佐々木康監督)など何本か観ていたが、この原作「新選組始末記」は再編集本にもかかわらずベストセラーとなり、市川雷蔵が新選組監察の山崎烝に扮する『新選組始末記』(昭和38年大映、星川清司脚本、三隅研次監督)も好評だったし、連続テレビドラマとしても放映されている。

 またその少し後には、土方歳三に扮した栗塚旭が一躍スターになった司馬遼太郎の「新選組血風録」(“小説中央公論”昭和37年5〜12月号)、土方の苛酷な生涯を描いた「燃えよ剣」(“週刊文春”昭和37年11月〜39年3月号)がベストセラーとなり、新選組ブームは60年代をを席巻していった。もっとも1960年代は、全般的に時代小説と時代劇が繁栄した時代ではあった。

 「新選組始末記」は、作者の子母澤寛が大正末期から昭和初年にかけて、生き残りの新選組関係者を歴訪し、資料を採集し聞き書きをとり、それを研究者の資料を踏まえた叙述の間に挿入するという、新しい形式でまとめている。聞き書きにはたとえば、壬生の新選組宿舎の一つにあてられた八木為三郎氏の談話“壬生ばなし”があり、そこでは少年の肉眼でとらえられた近藤勇、芹沢鴨、土方歳三、沖田総司、原田左之助、永倉新八、斎藤一、山崎烝ら幹部たちの動静がいきいきと描写される。近藤勇については、“近藤は、沢山いる新選組の中でもさすがに違っていました。私共は、前後四-五年も朝夕顔を合わせていたのですが、あの人の酔って赤い顔をして歩いているのなどは見たことがありません。(略)よく皮色の木綿の羽織を着て、袴は矢張り小倉、私共に逢っても、何かしら言葉をかけて、ニコニコして見せる。無駄口は利かず、立派な人でした。刀が好きだったと見え、私の父と話している時は、大てい刀か槍の話でした。”

 土方歳三については、“土方は役者のような男だとよく父がいいました。眼がぱっちりして引締った顔でした。むっつりしていて余り物をいいません。近藤とは一つ違いだということですが、三、四っつは若く見えました。”というぐあいである。

 このように生々しい見聞録があり、肖像写真も残っているので、同じ歴史上の人物といっても、柳生十兵衛や宮本武蔵のようなヒーローとは趣が違う。それでも子母澤寛は叙述の部分では、たとえば次のような描写をしてみせている。

 “土佐の北添佶摩が、同志がやって来たのだと思って、「何だ、何だ」といいながら、うっかり出て来ると、ばったり近藤と顔が合った。度を失って駈け戻ろうとした瞬間、勇は、どどどッと階段を矢のように昇って、頭から肩へかけ一文字に斬り下ろして終った。”

 池田屋事件で、近藤が密偵の山崎烝の手引きで池田屋に押し入った場面である。

 このように「始末記」はさまざまな文体の表情を見せて、清川八郎の浪士隊募集から、板橋の原っぱで首を斬られた近藤勇の処刑を目撃し、首のない遺体を掘り返して運んだ養子の勇五郎翁の思い出話、暗殺、切腹、心中などで死んでいった幹部や隊士の話などで銘々伝にもなっている。尾崎秀樹氏によれば「この方法は子母澤寛が社会部の遊軍として各種の探訪にあたり、新聞の囲みものを執筆してきた経験のたまものであり、歴史の死文をよみがえらせるすぐれた筆法となった。「始末記」の最大の魅力は、この聞き書き形式を採用した状況再現のみごとさにある」(子母澤寛全集 I 「解説」講談社)ということになる。

 ところで、ちゃんばら愛好家は、司馬遼太郎の「新選組血風録」(角川文庫)を読むことによって、もう一つの楽しみを味わうことができる。この作品は、「始末記」などを資料とすると同時に、独自の取材を加え、新選組にまつわる人物列伝、または異聞が連作物語ふうに再構成される。これはやはりちゃんばらの醍醐味である。たとえば池田屋事件の沖田総司 - 。

 “沖田はつねに平青眼。一種の難剣で、やや刀尖がさがり目、右に傾いている。/それで押してゆき、敵の刀とふれあうと、石火の速さですりあげ、斬った。まるで沖田に斬られるために、敵は刀下に吸いよせられてくるのではないかと思われるほど、この若者の働きはみごとであった。/土間では、斬り、廊下では、突いた。(略)/まずは青眼から刃をキラリと左横に寝かせる、どん、と足を鳴らして踏みこんだときには腕はのびきり刀は間合いを衝いて相手を串刺しにした。沖田の突きは、三段といわれた。たとえ相手がその初動の突きを払いのけても、沖田の突きは終了せず、そのまま、さらに突き、瞬息、引く。さらに突いた。この動作が一挙動に見えるほど速かった。”(「沖田総司の恋」)

 このほか、新選組にかかわる大きな事件はほとんど、主役を替えて書かれる。目次を追っていくと、たとえば「油小路の決闘」は、局長近藤勇に次いで副長土方と同格だった参謀・伊東甲子太郎の離脱と裏切りを制裁するため、近藤の妾宅に招いた帰途、大石鍬次郎以下の隊士が襲撃、暗殺した伊東の遺体を油小路に捨てておとりとし、引き取りにきた一派のうち三人が斬られた話を、生き残った篠原泰進(明治44年、84歳まで存命)を主人公として書いたものであり、「芹沢鴨の暗殺」は、新選組を結成した当初の筆頭局長だった芹沢が、常に酒を切らさず、酔えば形相まで変わって凶暴になり、軍資金調達と称して砲を持ち出したり、借金とりに来た商人の妾を犯したりする行状にたまりかねた近藤と土方が、浪士に襲われたかのように見せかけて暗殺し、その盛大な葬儀を土方が指揮するという話を、土方の視点で書いている。

 このように実録と不即不離の物語となった『血風録』は、幕末の文久三(1863)年の結成時から、元治元(1864)年の池田屋事件、慶応三(1867)年の伊東甲子太郎暗殺を経て、明治元(1868)年の沖田の病没に至るまでわずか六年の出来事でありながら、日本史の大転換期を命がけで生きた人の話でもあった。そこに武州三多摩の農民で天然理心流の宗家の養子となった近藤と、その道場で同門だった土方、沖田ほかの門人計八人が、攘夷という共通の理念があったとはいえ、ほとんど偶然のように徳川幕府よりの、内部粛清の厳しいテロ組織をつくったこと自体、まるで物語のようだ。そのうえ、大半は明治元年までに斬死し、明治二年の五稜郭落城まで生き残った土方も、近藤と同じ三十五歳で銃弾に散った。彼らは農民や町人、仲間、浪人などの出身だったが、かえって武士道を重んじる生き方を貫いたため死を早めてもいる。

 市川雷蔵が扮する山崎烝も、鍼医の次男で、先祖は赤穂藩の奥野将監という重臣だったが、途中で変節し、四十七士から脱落、同志から行方をくらましたという。そのために山崎の父も祖父も、生国をくらまして生きなければならなかった。(「池田屋異聞」)

 映画では、雷蔵の山崎は、芹沢(田崎潤)の暗殺と池田屋襲撃を軸に、恋人(藤村志保)への愛よりも近藤(城健三朗、のち若山富三郎に改名)への信義を選ぶ隊士として描かれる。土方(天知茂)は人を信じない策士に設定されていた。