『忍びの者』を撮るまで

 1960年代の日本映画界は、全体として、そろそろ下降線をたどりはじめるという状況にあった。日本映画各社は、すでに1956年の正月からいっせいに週二本立封切に踏み切り、量産競争に突入していったわけだが、1961年になると新東宝が量産戦線から脱落し、全体の年間製作本数も530本台から370本台へと30パーセントの減少を見せるようになっていた。

 週二本立ということは、各社が月にそれぞれ8〜10本もの作品を用意しなければならないということであり、映画全体の質の低下を招くのは当然の帰結であった。熾烈な企業間競争が量産戦線に拍車をかけたことは事実だが、もうひとつテレビの台頭に映画各社が量産で対抗したという側面もあった。テレビの出現までは、映画企業はとめどもないくらいに利益を上げていた。その味が忘れられず、夢よもう一度を願い、早撮りの安い映画を量産しつづけたわけだが、結果は、かけた制作費に見合うだけの配収が見込めず、赤字を重ねるようになり、映画の質の低下とあいまって、映画界の衰退へと道を開いて行くことになった。

 私に大映から声がかかってきたのは、映画界がそういう状況に入りかけていたときであった。そのころになると、独立プロで共に運動していた仲間たちは、ある程度企業に入って仕事ができるようになっていた。私たちは、なにも独立プロだけで映画をつくろうという気持ちはないし、企業を軽蔑しているわけでもない。企業さえその気になれば、いつでも企業で仕事をするつもりは私にもあった。ところが、いちばん最後まで、どこからも声がかけられなかったのが私である。いちばんアカいと見られていたのかもしれない。だから、仲間がわりあいに楽になりはじめていたころ、私は生活的にも苦しかったのではなかろうか。経済的に、私は全く駄目であった。

 永田雅一が大映社内で私に仕事をさせるという意見を出したとき、重役のなかには私が共産党だからという理由で反対した者もいたらしいが、共産党でも仕事がうまければいいじゃないかと永田さんは押し切ったという。そういう意味では永田さんに恩義を感じなければならないのだろうが、私には最右翼の永田さんから声がかかったということが不思議で仕方がなかった。

 永田さんが私に会いたがっているということは、プロデューサーの伊藤武郎を通して伝えられてきた。<何だろうな。私に何か撮ってくれというのであれば、当然現代劇だろうな> - そう思って行ってみると、

 「市川雷蔵を使って、何かひとつ時代劇をつくってくれないか」

 というのである。私は、<困ったな>と思った。時代劇はそれまであまり撮ったこともなかったし、それほど気乗りもしなかった。

 「少し待っていただけますか。考えてみましょう」

 そう言って、私は、いったん引き揚げた。なかなかアイデアが浮かばず、一週間ぐらい悩んでいたと思う。そのとき突然、ふっと『忍びの者』のことが頭に浮かび、<これだ!>と思った。そのころ「赤旗」日曜版に村山知義の原作が連載されていたのである。私は、小説のはじめのほうに出てくる石川五右衛門に市川雷蔵を当てたら何とかかたちがつくだろうと考えた。催促が来たので、再び永田さんのところへ行き、

 「『忍びの者』という企画を考えましたが、どうでしょうか?」

 と聞いてみた。

 「忍びの者というのは、そりゃ何だい?」

 「忍術ですよ。忍術を使う話です」

 「ああ、忍者か。印を結んでネズミになったりガマになったりする、あれか?そんなのはちょっとまずいな」

 と、永田さんはつまらなそうな顔をする。

 「いや、ちがうんです。それは古いんだ。忍術といっても、、これは科学的な忍術なんです」

 そう言って私は、日本の歴史のなかで忍者がどういう役割を果たして来たか、忍術がいかにリアルなものであつかなどについて話をした。永田さんはそれに乗ってきた。

 「そうか、それは何か原作があるのか?だれが書いているの?」

 「村山知義が書いている連載ものです」

 「ほう、村山さんが書いているの」

 永田さんは、こういう大家には非常に弱いところがあり、ますます乗ってきた。

 「そうか、そりゃぜひ、ひとつ考えてみてよ。ところで、それはどこに連載されてるの?」

 瞬間、「赤旗」と言いかけて私はやめた。

 「地方紙に連載されてます」

 「ああ、地方紙か。それじゃ単行本になったら読もう。とりあえずどういう話にするか考えてみてくれないか」

 永田さんにそう言われて、シナリオライターの高岩肇と相談し、一応ストーリーをつくって、もって行くと、

 「これは面白いな。ぜひやろう」

 と言う。永田さんは「赤旗」連載ということは知っていたかもしれないが、こうして企画が通り、撮影に入ることになった。

 

 

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