忍びの者シリーズ (62/12〜66/12)

as of 10/21/21


 「立川文庫などで書かれてきた忍術というものを、この映画でちゃんと撮って見たい」。という、山本薩夫監督による『忍びの者』(1962年)は、今までの印を切ってドンパッと消えたり、大蛇やがま蛙が出てくる興味本位の忍術映画と違った、忍術のリアリズムと見事な演出で大ヒット。忍者ブームのきっかけを作った。

 63〜65年、東映は『忍者秘帖・梟の城』『江戸忍法帖・七つの影』『伊賀の影丸』『月影忍法帖・二十一の眼』『第三の忍者』『隠密剣士』『少年忍者・風のフジ丸』『忍者狩り』『くノ一化粧』『忍法忠臣蔵』松竹も『忍法破り必殺』『異聞猿飛佐助』と相次いで忍者映画を公開。『忍びの者』のヒットが巻き起こした、まぎれもないブーム現象であった。

   闇に生き闇に死ぬ忍者のヒューマニティー。人の陰にいて自分の存在を意識させてはいけない人間が、歴史の流れに影響を与える面白さ。掟の絶対や組織の力などもきちっと描かれ、忍者の人間模様とアクション+頭脳プレーで、従来の忍者映画のイメージが変わった。主演は市川雷蔵。石川五右衛門を中心に三作。霧隠才蔵を主人公に四作品。オリジナル忍者霞小次郎の仇討ち物語。以上、忍びの者シリーズとして八作品がある。

「日本の技術の秘密: 忍者、変身、団結力」コンセプト

 1960年代の高度成長期から低成長期へ、そして21世紀に入ってからと、日本の技術の進歩や企業の海外進出を支えたものは何か?…日本人の勤勉さと忍耐力、細やかな配慮、より高みを極めようとする職人気質…様々な要素が考えられるが、今から4百年以上も前の江戸時代にその秘密を見出すことができる。

 その1つが、海外でもよく知られている「忍者」の存在。忍者は、集団でその肉体と精神を鍛えて、情報収集や密命遂行に使われただけではなく、各人が個として優れた機能を発揮すると同時に、集団でも使命を果たすために、非情なまでの役割分担を徹底するという「鍛えられた特殊部隊」であった。その個としての厳しさや、使命を達成する集団劇の伝統は、マンガのみならずアニメにも描かれ、実写時代劇としては娯楽を超えて哲学的な境地にまで達している。

 この特集では、海外で伝説化され、その実態を知られぬままデフォルメされて、時には誤解されている忍者について描いた作品を中心として、日本人の変身の巧みさ、日常と非日常を使い分けるその技術と抑制、そしてそのギャップが生む美や、集団による使命達成の見事さを追求する。そして時には集団に対峙する個として戦い、あるいは復讐を遂げるために忍耐の日々を送る忍者。ここに西欧にも劣らぬ日本人の個人主義的な一面を見出すことにもなるだろう。この特集を通して、日本人が物心両面において求めている目標や機能集団としての理想を把握することが出来るだろう。その名称だけが先行し、実態はいまだ謎となっている忍者とは何であるか、そして日本人にとっていざという場面での「変身」とは、集団で目標に向かう際のチームワークとは、どんなものであるかを発見して欲しい。東欧巡回日本映画祭、「日本の技術の秘密:忍者、変身、団結力」より、上映の報告はに)

:国際交流基金は、海外での上映用に英語などの字幕が付いた日本映画のフィルムを多数所蔵しており、国際映画祭から小規模な上映会まで、また一般の映画愛好家から日本研究者まで、世界各地の様々な人に日本映画を提供している。

 

リアリティと人間ドラマが盛りこまれた

 今でいうとスパイだ。もとは山伏が身を守るために考え出したという技を活用し、人の目を欺き、相手の虚をついて情報活動をする。その、初歩的でも科学的だった戦国時代の忍者の実態を映像で描こうというもの。だから、『忍びの者』では、従来のお子様アイドル的な忍術ではなく、毒薬づくりの名人、動物を使う名人、火薬づくりの名人、というように各自に特技がある。ネズミを使って注意を逸らしたり、天井裏から糸を垂らして寝ている口許に水で溶いた毒薬を滴し込む、木に宙吊りにする、カニのような横歩き、天井裏をつッ走る、橋に貼りつく、トンボを切る。それに、捲き菱、手裏剣、目つぶし、手カギ、打ちカギなどの小道具類や、時には偽筆で瞞す、など、初歩的でもリアルなテクニックを駆使する。また、金沢の妙立寺や京都の二条陣屋のように建物の構造がからくり仕立てになっていて、抜け道や階段、襖や壁の細工に実在感がある。

 主人公は石川五右衛門。忍術に練達している平凡な伊賀の下忍だ。親子夫婦の絆さえ即、絶たなければならない、刃の下に心と書く忍び。だから、人間的な感情を禁じられ、掟に服従し、暗闇の中を渡り歩く宿命だ。ところが、五右衛門は一人の女によって人間性に目覚める。そして、反逆する。これまでの忍者ものと違ったストリーの展開は、現実性のある忍術とともに、忍者の人間ドラマという新鮮味があり、大人の鑑賞に堪えうる映画として成功した。ところが、『忍びの者』の成功は、『椿三十郎』『切腹』『世界残酷物語』などのヒットとともに、残酷ものという一つのムードを生んだ。

 「人を斬れば血がでるのは当たり前である。その当り前を当たり前としない、きれい事の時代劇に現代の観客は飽きがきているから、残酷といわれる時代劇が受け入れられる、のだと思う。しかし、映画を制作に携わる者は、“残酷のための残酷”というか、何の必然性もない、残酷な表現に走る恐れがないよう、その作品に表現された残酷性の意義とか価値をしっかり把握し、冷静な態度で望むべきだ。『忍びの者』は、思わず眼を被いたくなる残酷場面があるが、それは、残酷性を的確に強調することで、作品のテーマをより明確にし、彼等の人間復帰への願望が強烈な感動となって観る人の心に食い込む、作品を生かす一つの手段になっている。だから、不必要と感じなかった。『忍びの者』は残酷な話で、視覚に訴える残酷描写も多いが、それより、非人間化された人間の悲惨さに、はるかに残虐なものを感じる。この場合の残虐な表現は、毒薬も使い様で良薬に代わるように、時代劇の古い殻を破る一つの突破口にすぎない」

 つまり、外面的な残虐性は真意ではない。と市川雷蔵は、大衆に見放されつつある時代劇に警告する。しかし、映画では、生きるために人間性を歪められた忍者から人間復帰し、父親としての喜びを噛みしめながら妻の許へとひた走る。その真摯な姿は爽やかな感動となって観客にアピールした。そして、続編では愛する我が子を信長の忍者狩りで殺され、怒り、復讐に燃える。女忍者を放ったり、天井裏、床下を這い回ったり、と攻撃的な前作に比べると防衛的だ。虎視眈々と仇討ちの機会を狙うが、結局、捕えられ三条河原で釜ゆでになる。ところが、“彼ほどの忍者がそうやすやすと処刑されるはずがない”という、期待を裏切ることなく、服部半蔵に助け出され、三作までも生き続けるのだ。

“狂四郎”の雷蔵とはまた違った持ち味

 「主人公は変わっても大映忍者映画の“芸術性”は変わらない」

 雷蔵は霧隠才蔵になってまたも忍術にチャレンジする。しかし、今度は、「忍者は自分の生き甲斐だ」という、主体性のあるプロフェッショナルだ。だから、熟達した剣術と柔とによる“闘術”、仮死状態のまま埋葬させ後から生き返る“心気の術”、女を使って敵をだます“逆くノ一の術”、また、綱を渡って樹上を舞い、谷を渡る“翔鳥の術”、それにトレードマークの“霧隠れの術”だ。つまり、霧を湧かせて姿をくらますわけ、そんな、忍法五種のフレッシュ技を披露する。荷車の上に飛び降りたり、樹上にジャンプし、鎖鎌や手裏剣、火薬玉をかわし、枝を渡り、地を這い、水中に潜み、変化自在に跳ね回る。しかし、最後には真田幸村の人柄に感銘し、大坂城から助けだし、薩摩へと落ちのびさせる人情家だ。

 新作まで、信長、秀吉、家康の三人を殺してしまった雷蔵は、新作にためらいをみせる「よほど、構想を新しくしないかぎり、これ以上続けるのは無理じゃないかな」とはいうもののドル箱シリーズ。才蔵の無念を託された息子は才助改め、才蔵となってまたも見参。真田幸村の遺児百合姫と再会する。七作目では、初代才蔵に戻って家康配下の風魔一族とのサバイバル戦に命をかける。

 『新書忍びの者』は親の仇を討つために忍者になる霞小次郎が主人公。政治の道具に利用される存在というより、仇討ちのために忍術修業に切磋琢磨する。小次郎の執念は、過酷な試練に耐えて秘術を会得し、合戦に参加し仇敵を見つけて復讐するが・・・・。ところが、シリーズ八作目ともなると、忍者対忍者の死闘もマンネリ化し、せっかく誕生したキャラクターも歯切れが悪い。

 「シリーズで続くものが、シリーズで評判が悪いと、シリーズにならない。個人的にいえば、シナリオライターの研究が不足しているということでしょう」『忍びの者』のラストのように小次郎は茜のもとへ・・・。そして、またの活躍がないままエピローグとなる。

 雷蔵の忍者は覆面から覗くセンシティブな瞳。不屈の意志を表わす唇、こもってはいても明徹なエロキューション。黒装束に包んだしなやかな肢体は、樹上を翔け、水に潜り、天上を這っても不思議さはない。さっそうとして現実味がある。暗鬱なムードなのに涼やかで卑しさや穢れがない、忍者の誇りをもっている。しかも、サイコロジカルな陰影を五感で適確に表現し、権謀術策の中に生きた忍者の人間性を、かっきりと演じた。眠狂四郎とはまた違った持味で適役だ。

 『忍びの者』に始まった、映画やテレビの忍者ものブームが定着して三十余年。今でも劇場に映像に人気がある忍術だが、忍者映画といえば、やはり、『忍びの者=雷蔵』に代表される。(石川よし子、新人物往来社「歴史読本」特別増刊スペシャル51『忍びの達人』より)

 

『忍びの者』

 村山知義の『忍びの者』は、196011月から625月まで、毎週の「赤旗日曜版」に連載された。その59年には司馬遼太郎の『梟の城』が発表されて、この年の第42回直木賞を受けている。これと相前後して、山田風太郎がおびただしい数量の『風太郎忍法』シリーズを書きまくって、安保闘争に揺れ動いた激動の季節に、大衆読み物の世界だけは一種のエア・ポケットのような忍者小説ブームを生んだ。あるいは背景にそうした世相があったればこそ、人々は玄妙不可思議な忍者小説などに逃避を求めたのかもしれない。とくに山田風太郎のものは、奇想天外な忍法テクニックを案出して、超現実的で、艶笑的な物語の趣向に読者を楽しませた。司馬遼太郎の『梟の城』も波乱万丈の物語の仕組みや展開を持ち、忍者の変身や目くらましのだまし絵的な興趣に富んだすぐれたエンタテインメントだが、当時、作者自身が筆者に「忍法は現代におけるスペシャリストとして見てくれればいい」と語っていたのが妙に記憶に残っている。またそのように見てこの作品を読むと、今日の社会機構やサラリーマン気質のようなものが、物語や登場人物の中から透けて見えてくるのである。   

 村山知義の『忍びの者』は風太郎はもとより司馬作品に比べても、忍者の生活形態、忍者の技術など、すべての点ではるかにリアリスティックである。忍者の上忍と下忍にタテ割りにされた身分差別による主従関係や、敵対する二つの忍者集団が、実は同一人物によって支配され、互いに部下をけしかけ、争わせて目的を果たさせるという権力構造のからくりが、物語の進行とともに、しだいに照明され、主人公の石川五右衛門の人間的な苦悩があぶり出されてゆく。このような硬派の読み物、とくに『赤旗』連載の小説を映画化することは、当時の製作会社としては大きな賭けであったが、プロデューサーの伊藤武郎が直接、大映社長・永田雅一に働きかけ、ようやく実現したものである。しかも忍者ものに先鞭をつけたこの企画は興行的にもヒットし、ひきつづきシリーズものとして製作されることになった。これには主役に市川雷蔵を起用し、すでに「悪名」と「座頭市」という二つのシリーズを持つ勝新太郎に対抗させる意味合いが含まれていた。しかし村山知義の原作は『忍びの者』と姉妹篇『五右衛門釜煎り』でタネ切れとなった。映画で言えば二作目の「続・忍びの者」までであった。

 そこでシリーズの延命策として、五右衛門は実は釜に入っていなかった、替え玉を使って生きていた、ということにして第三作の「新・忍びの者」がつくられた。村山知義の構想では、忍びの者たちはその後、秀吉の朝鮮侵略の先兵になって、この道では本家筋にあたる朝鮮方の忍者との戦いにもろくも敗れる。のちに彼らは家康に仕えてお庭番、つまりスパイになることによって生き残り、明治になって警視庁に入り、特高になり、戦時中の中野学校へつながってゆく、というものであった。だから山本薩夫は三作目からは監督を下りている。第三作の「新・忍びの者」は、一応、村山知義の構想に沿って、五右衛門は秀吉の朝鮮出兵から関ケ原の戦いまで生きているが、すでに年齢的には四十の坂をとっくに越している計算になり、第四作の「忍びの者・霧隠才蔵」という題名どおり、以後、主人公も霧隠才蔵に代わり、八作目の「新書・忍びの者」に至っては霞小次郎という、「笛吹童子」の霧の小次郎まがいの忍者が主人公として登場する。こうして回を重ねるに従って、第一作、第二作の持っていた主人公の性格的な陰影や、雷蔵の硬質な演技の魅力も失われ、形骸化さたマンネリズムだけがあらわになり、この八作目でシリーズは打ち切りになった。

 このシリーズでは、第一作の「忍びの者」が、高岩肇の脚本にも展開の意外性と衝撃があり、山本薩夫の正攻法でハズ押しの演出とともに、この種の忍者もののはしりとしての鮮度があった。もともと山本薩夫は、階級、貧富、主従など、支配者と被支配者とのコントラストをドラマの軸にして、そうした対立の構図の中に、人間性をふみにじられた弱者の痛苦や抵抗を引き出すことを得意とする。しかもそれが観念的、図式的にならず、明快で、だれにもわかりやすい作品に仕立て上げるところに社会派作家としてのぬきんでた資質があった。この作品でも、五右衛門が下忍の身分でありながら、主人の妻と通じる場面に若者らしい心のおびえと肉体的な喜びとの複雑に入り混じった気分が活写されているし、三太夫の命で、京や堺で盗みを働くことを強要され、その行動をことごとく監視されて、屈辱に沈んでゆくプロセスに迫真がある。伊藤雄之助が三太夫と長門守の二つの顔を力演しているが、抜け穴をくぐって百地砦と藤林砦の間道を、忍者流の速歩術でひょこひょこと往来するコミカルなシーンなどがコマ落としを使って巧みに処理されていた。全体に序破急の呼吸を心得た心にくまとめ方である。 

 市川雷蔵のシリーズものは、十二作を数える「眠狂四郎」が数の上では最高だが、ついで「若親分」シリーズが「忍びの者」と同数の八本である。それがここでは「忍びの者」シリーズのみリスと・アップされたのは、やはり、この作品が雷蔵の代表作の一つとして高く評価されているからであろう。雷蔵はメイクしたときの端正なマスクと、いつも背筋を正した姿勢のよさと、明晰な台詞まわしとを持った非凡な二枚目役者であるが、顔を白ぬりにした古い型の時代劇の美男役は余り似合わなかった。同じ二枚目も「忠直卿行状記」のような清潔で硬質な役どころや、「濡れ髪三度笠」系の二枚目半的な愛敬のある立役でアベレージの高い打率を残している。また「炎上」や「破戒」の出自や性格にかげりのある役で成功している。「忍びの者」の主人公もその系列に属し、それにアクティブで、エネルギッシュな行動力が加わる。 

「忍びの者」と「続・忍びの者」は、理詰めな物語の運びと写実の演出によって雷蔵ふんする五右衛門の人間性と悲劇性を際立たせていた。(滝沢一、キネマ旬報「日本映画ベスト200」昭和57年5月30日発行より)

  村山知義の『忍び者』

 私は数年前から、現在の日本人という民族の性格がどういうふうにして形成されたか、ということに興味を持ち初めた。そしてそれを小説や戯曲の形で探究しようと初めた。その最初の試みは戯曲「国定忠治」だった。徳川封建制の重圧の下で、食いつめた庶民たちが正業を離れて、賭博を生活手段にすることによって、自分を非合法の存在にし、権威への無理想の反抗と、自衛のための博徒仁義の醸成とのうちに、人間性を無残なものに歪めて行く姿を見つめた。

 次は戯曲「終末の刻」だった。日本民俗に初めてもたらされた、人間は神のもとに平等だ、という、人間解放と男女平等の思想(実はそれは神に対する人間の隷属の思想だが)に魅せられた農民たちの、新しい世界観のためには死をも苦痛を怖れんない姿を、前作の否定面に対して、今度は積極面をというつもりで対象にした。して三番目が、この小説「忍びの者」である。

 初めは漠然と、戦国時代から何か題材を得たいと思っていた。芝居の演出の仕事で、何度か大阪に行くうち、フト、忍術の根拠地だった伊賀上野へ行って見ようと思いたった。市役所を尋ねたら、そこに勤務しておられる奥瀬平七郎さんが、忍術の研究家であって、いろいろのことを教えてくださった。そして、一度に忍術に憑かれてしまった。

 東京芸術座の文芸部員岡崎柾男君を助手として、再度、伊賀を探訪し、市役所のジープを出して頂き、奥瀬さんに案内をお願いして、大事なところは殆どみな実地に行って見た。上野市の図書館や、忍術関係の古書の蒐集で名高い沖森書店で、本を見せて頂いた。殊に上野市の図書館からは、門外不出の忍者の秘伝書「万川集海」の写本を、特に東京まで送って頂いて、借覧した。その他の参考書も手当たり次第に読んだ。足立巻一さんからは、たくさんのノートその他を見せて頂いた。やや目途が立ったので、戯曲に書こうと志し初めた所へ、「アカハタ日曜版」の編集長の樋口さんから、日曜版に何か面白い歴史小説を書け、というお話があったので、戯曲よりも先に小説で書くことにした。そして一九六〇年の九月四日に第一回十枚をお渡しした。ところがその十二日には、訪中日本新劇団の団長として羽田を出発せねばならぬ。そこで大いに勉強して十日迄に第七回までの六十枚を書いてお渡しした。トランクの中には地図類、参考書類、ノート類を入れて、以後二ケ月間、北京、上海、武漢、広東の各地のホテルで書き次ぎ、帰ってからの忙しい中も中絶することなく、年を越した。

 そのうち、大変評判がいい、というので、いよいよ脂が乗って来たところへ、初めは五十回位というお約束だったのが、もう少し延ばして、というお話で、ついに七十九回迄続いて、今年の五月に、約八百枚で一応擱筆した。山本薩夫君が大映で仕事をする第一回作品に、という話があり、高岩肇君のシナリオも大変面白く出来、目下、京都の大映撮影所で、市川雷蔵の石川五右衛門、伊藤雄之助の百地三太夫と藤林長門守、西村晃の木猿、というような配役で、撮影中である。

 一方、後回しになった戯曲の方も、九月末から書き初め、来年一月十七日初日で、東京芸術座が都市センターホールで上演することになっている。こうして一応、天正伊賀の乱で擱筆をしたものの、当時よそに派遣されていて、命を助かった伊賀者や、この乱では被害者でなかった甲賀の忍者たちのその後のことで、書くべきことがまだまだある。ことに石川五右衛門が、信長暗殺の目的を遂げぬうちに、本能寺の変があり、脅迫者からも使命からも、一切解放されて自由になった筈だのに、一転して太閤暗殺を志すようになり、失敗して捕えられ、釜ゆでになるまでの顛末は、どうしても書かねばならぬ。小説でも、戯曲でも、映画でも、これが今後の課題として残っている。

 小さい頃、立川文庫で猿飛佐助や霧隠才蔵などの活躍に接した時から、忍術などといういうものは、全然のウソで、空想の産物だと思い込んでいた。それが全部が全部ウソではない、と思い初めたのは、昭和七年に治安維持法違反でつかまって、東京中の警察をタライ廻しにされて、何ケ月目かにとうとう水上署に廻されて来た時だ。そこは隅田川の河口に近く、川に臨んでおり、人間の形とは思えぬように変容した土左衛門や、川に捨てられた赤ん坊の屍体などにお目にかかる機会があった。そこのきたならしくて薄暗い留置場に、何度めかの継続二十九日間、入れられていたわけだが、思想犯が廻されてくることは稀だったのか、そこの司法主任の、名前は忘れたが、柔道何段かで、豪傑みたいな男が、妙に私に好意を持ってくれて、どうせ君たちは、これから検事局に廻されて、長くかかる人だから、シャバの見納めをさせてやろう、といって夜になると、私を外に連れ出した。

 四月につかまって、もう夏の暑い最中だったが、日が暮れると、刑事たちは、立ちん坊、職人、学生いろいろな者に変装して出て行く。司法主任は刑事部屋の戸棚から、腹掛けやハッピを取り出して、自分も着、私にも着せて手錠もなしで、ブラブラと外へ出掛ける。お祭りの人ごみの中にも出て行く。たとえ私が逃げようとしても、難なくつかまえられるという、体力的な自信があったのだろう。

 或る時は、ゾロリと角帯で着流しという姿で、小さな料亭にあがり、酒を呑ませてくれた。そして「酒なぞはこれが暫くの呑み納めだぜ。酔っ払ったらかついで帰ってやるよ。ハハハハどうだい、こうしていりゃア、国賊と岡っ引きだとは、誰も気が附きゃアしねえさ。これが忍術というものさ。ハハハハ」と笑った。

 当時の留置場には、小さい監房ごとにそれぞれ牢名主がおり、新入りをいじめるという徳川時代のような習慣も残っていた。また、前橋市の留置場などは(そこへ小林多喜二、中野重治と一しょに入れられたことがあったが)直径二寸あまりの丸太の格子で、伝馬町の大牢をしのばせる造りだった。「旦那」とか「お役人さん」とかいう呼び方も、伝統を感じさせた。

 忍術の一部が警視庁に伝わり、戦時中の中野スパイ学校に受け継がれた、ということを、私は実感をもって受け取ることができた。この小説のできた遠因は、そんな所にもあったのである。

(村山知義、理論社小説国民文庫「忍びの者」62年刊あとがきより)

 

 
 石川五右衛門

 安土・桃山時代に京の都を荒らしまわり、文禄三(1594)年、釜煎の刑に処せられた石川五右衛門は、その出身は不明で、日本一の大泥棒として伝説化された人物。浄瑠璃や歌舞伎で五右衛門が詠む「石川や浜のまさごは尽きるとも。世にぬす人のたねや尽きまじ」という辞世の句を知らぬ者はいないだろう。もっとも五右衛門に忍者としての性格が備わるのは、岡田玉山画、寛政(1789〜)期の読本『絵本太閤記』が刊行されてからで、この中で彼は時の権力者豊臣秀吉に抵抗するヒーローとして大衆の人気を獲得している。

 安土・桃山時代に京の都を荒らしまわり、文禄三(1594)年、釜煎の刑に処せられた石川五右衛門は、その出身は不明で、日本一の大泥棒として伝説化された人物。浄瑠璃や歌舞伎で五右衛門が詠む「石川や浜のまさごは尽きるとも。世にぬす人のたねや尽きまじ」という辞世の句を知らぬ者はいないだろう。もっとも五右衛門に忍者としての性格が備わるのは、岡田玉山画、寛政(1789〜)期の読本『絵本太閤記』が刊行されてからで、この中で彼は時の権力者豊臣秀吉に抵抗するヒーローとして大衆の人気を獲得している。

 この五右衛門を階級闘争の闘士として自らの小説の主人公としたのが村山知義であり、その作品は『忍びの者』(昭三五)及び『五右衛門釜煎り − 忍びの者』(昭三八)。村山によれば、忍者はそのほとんどが、百姓や漁師等、労働者や技術者であり、戦国の武将同士の争いの結果、人をだます術が発達し、食えない百姓らがその専門忍者になるのだという。こうした観点は忍者を軸として歴史を搦手から据え直し、社会の上部構造と下部構造の間に切り込みを示すことをも可能にしており。五右衛門は、外では織田信長、豊臣秀吉といった権力者に対し上忍・下忍といった忍者社会の身分秩序に対し、あつい闘いを展開していくことになる。

 作者の村山知義は、もともと戯曲『暴力団記』(昭四)等で知られたプロレタリア作家であり、その後、投獄されて転向、自らの体験をもとに転向文学の傑作として名高い『白夜』(昭九)を発表する。こうした作品をものした作者の筆になりだけに、その作品が左翼的傾向を帯びるのは当然のことといえる。彼は自らの転向体験から、「忍術の一部が警視庁に伝わり、戦時中の中野のスパイ学校に受け継がれた、ということを、私は身をもって受けとることが出来た」と記しており、釜煎に去れる五右衛門の姿には権力に圧殺された人々への鎮魂がこめられているのに違いない。

 釜ゆでになった講談ダネの大盗は明治末にはすでに尾上松之助らが演じ、数本作られているが、異色作は大正15(1926)年マキノの「夜叉王」前後篇で新星市川右太衛門が主演していた。バント、五右衛門が共産主義者であるということで改訂カットされた。

 戦後26年、檀一雄の「真説・石川五右衛門」で復活したが主演の新人萩原満が力不足で快男児の面影なく、37年『忍びの者』の市川雷蔵が、荒唐無稽な忍術使いでなくリアルな“忍者”の姿と活動を表現して新鮮な衝撃を与え、“忍者ブーム”のはしりとなった。そして信長、秀吉といった権力者に挑戦する五右衛門は反体制的共感を与えたのである。テレビ版「忍びの者」は品川隆二が陰惨なムードで熱演した

霧隠才蔵

 猿飛佐助には戸沢白雲斎という忍術の師匠がいるが、この佐助に次ぐ十勇士の人気者霧隠才蔵は、由利鎌之助とともに山賊をはたらいていたところを、佐助や清海入道に取り押さえられて改心。十勇士の一員となる。佐助に較べて、どちらかといえばニヒルな持ち味が特徴といえようか。

 その才蔵を現代に甦らせたのが司馬遼太郎の『風神の門』(昭三〇〜三七)である。この時期、司馬は直木賞を得た『梟の城』(昭三三〜三四)等、忍者や剣豪を主人公として作品を、多く執筆していたため、気のはやいマスコミから“忍豪作家”というレッテルをはられていた。司馬作品の特徴は、忍者が武将に傭われることはあっても技術を売るだけで決して己を売らない特異な職業集団として描いたことにある。そうした認識は、作者の新聞記者時代の職業意識に通じるものであり、この様なジャーナリスティックな感覚が、新たな忍者像を生むことになったのである。

 霧隠才蔵は立川文庫での誕生からして猿飛佐助の弟分で、常に二番手につけられる。映画への登場も猿飛とセットとか、真田十勇士の1人としての活躍が多かった。

 ところが、“忍者ブーム”に乗って、昭和39(1964)年大映“忍びの者シリーズ”に3回も登場、伜才助まで出て非情な忍びの世界を見せ、講談本のヒーローから脱却した。市川雷蔵が好演。

 さらに司馬遼太郎の『風神の門』がテレビ化され、明るく女好きな忍者が描かれた。猿飛もそうだが、日本特産の忍者・忍法をアメリカや香港映画にパクられているのは残念で、特撮技術を駆使したエンターテインメントな作品が生れてもいい筈だ。

( 93 Autumn「 時代小説のヒーロー」 平凡社刊 永田哲朗より)

   

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とを、私は身をもって受けとることが出来た」と記してお