村山知義の『忍びの者』は風太郎はもとより司馬作品に比べても、忍者の生活形態、忍者の技術など、すべての点ではるかにリアリスティックである。忍者の上忍と下忍にタテ割りにされた身分差別による主従関係や、敵対する二つの忍者集団が、実は同一人物によって支配され、互いに部下をけしかけ、争わせて目的を果たさせるという権力構造のからくりが、物語の進行とともに、しだいに照明され、主人公の石川五右衛門の人間的な苦悩があぶり出されてゆく。このような硬派の読み物、とくに『赤旗』連載の小説を映画化することは、当時の製作会社としては大きな賭けであったが、プロデューサーの伊藤武郎が直接、大映社長・永田雅一に働きかけ、ようやく実現したものである。しかも忍者ものに先鞭をつけたこの企画は興行的にもヒットし、ひきつづきシリーズものとして製作されることになった。これには主役に市川雷蔵を起用し、すでに「悪名」と「座頭市」という二つのシリーズを持つ勝新太郎に対抗させる意味合いが含まれていた。しかし村山知義の原作は『忍びの者』と姉妹篇『五右衛門釜煎り』でタネ切れとなった。映画で言えば二作目の「続・忍びの者」までであった。
そこでシリーズの延命策として、五右衛門は実は釜に入っていなかった、替え玉を使って生きていた、ということにして第三作の「新・忍びの者」がつくられた。村山知義の構想では、忍びの者たちはその後、秀吉の朝鮮侵略の先兵になって、この道では本家筋にあたる朝鮮方の忍者との戦いにもろくも敗れる。のちに彼らは家康に仕えてお庭番、つまりスパイになることによって生き残り、明治になって警視庁に入り、特高になり、戦時中の中野学校へつながってゆく、というものであった。だから山本薩夫は三作目からは監督を下りている。第三作の「新・忍びの者」は、一応、村山知義の構想に沿って、五右衛門は秀吉の朝鮮出兵から関ケ原の戦いまで生きているが、すでに年齢的には四十の坂をとっくに越している計算になり、第四作の「忍びの者・霧隠才蔵」という題名どおり、以後、主人公も霧隠才蔵に代わり、八作目の「新書・忍びの者」に至っては霞小次郎という、「笛吹童子」の霧の小次郎まがいの忍者が主人公として登場する。こうして回を重ねるに従って、第一作、第二作の持っていた主人公の性格的な陰影や、雷蔵の硬質な演技の魅力も失われ、形骸化さたマンネリズムだけがあらわになり、この八作目でシリーズは打ち切りになった。
このシリーズでは、第一作の「忍びの者」が、高岩肇の脚本にも展開の意外性と衝撃があり、山本薩夫の正攻法でハズ押しの演出とともに、この種の忍者もののはしりとしての鮮度があった。もともと山本薩夫は、階級、貧富、主従など、支配者と被支配者とのコントラストをドラマの軸にして、そうした対立の構図の中に、人間性をふみにじられた弱者の痛苦や抵抗を引き出すことを得意とする。しかもそれが観念的、図式的にならず、明快で、だれにもわかりやすい作品に仕立て上げるところに社会派作家としてのぬきんでた資質があった。この作品でも、五右衛門が下忍の身分でありながら、主人の妻と通じる場面に若者らしい心のおびえと肉体的な喜びとの複雑に入り混じった気分が活写されているし、三太夫の命で、京や堺で盗みを働くことを強要され、その行動をことごとく監視されて、屈辱に沈んでゆくプロセスに迫真がある。伊藤雄之助が三太夫と長門守の二つの顔を力演しているが、抜け穴をくぐって百地砦と藤林砦の間道を、忍者流の速歩術でひょこひょこと往来するコミカルなシーンなどがコマ落としを使って巧みに処理されていた。全体に序破急の呼吸を心得た心にくまとめ方である。
市川雷蔵のシリーズものは、十二作を数える「眠狂四郎」が数の上では最高だが、ついで「若親分」シリーズが「忍びの者」と同数の八本である。それがここでは「忍びの者」シリーズのみリスと・アップされたのは、やはり、この作品が雷蔵の代表作の一つとして高く評価されているからであろう。雷蔵はメイクしたときの端正なマスクと、いつも背筋を正した姿勢のよさと、明晰な台詞まわしとを持った非凡な二枚目役者であるが、顔を白ぬりにした古い型の時代劇の美男役は余り似合わなかった。同じ二枚目も「忠直卿行状記」のような清潔で硬質な役どころや、「濡れ髪三度笠」系の二枚目半的な愛敬のある立役でアベレージの高い打率を残している。また「炎上」や「破戒」の出自や性格にかげりのある役で成功している。「忍びの者」の主人公もその系列に属し、それにアクティブで、エネルギッシュな行動力が加わる。
「忍びの者」と「続・忍びの者」は、理詰めな物語の運びと写実の演出によって雷蔵ふんする五右衛門の人間性と悲劇性を際立たせていた。(滝沢一、キネマ旬報「日本映画ベスト200」昭和57年5月30日発行より)
村山知義の『忍び者』
私は数年前から、現在の日本人という民族の性格がどういうふうにして形成されたか、ということに興味を持ち初めた。そしてそれを小説や戯曲の形で探究しようと初めた。その最初の試みは戯曲「国定忠治」だった。徳川封建制の重圧の下で、食いつめた庶民たちが正業を離れて、賭博を生活手段にすることによって、自分を非合法の存在にし、権威への無理想の反抗と、自衛のための博徒仁義の醸成とのうちに、人間性を無残なものに歪めて行く姿を見つめた。
次は戯曲「終末の刻」だった。日本民俗に初めてもたらされた、人間は神のもとに平等だ、という、人間解放と男女平等の思想(実はそれは神に対する人間の隷属の思想だが)に魅せられた農民たちの、新しい世界観のためには死をも苦痛を怖れんない姿を、前作の否定面に対して、今度は積極面をというつもりで対象にした。して三番目が、この小説「忍びの者」である。
初めは漠然と、戦国時代から何か題材を得たいと思っていた。芝居の演出の仕事で、何度か大阪に行くうち、フト、忍術の根拠地だった伊賀上野へ行って見ようと思いたった。市役所を尋ねたら、そこに勤務しておられる奥瀬平七郎さんが、忍術の研究家であって、いろいろのことを教えてくださった。そして、一度に忍術に憑かれてしまった。
東京芸術座の文芸部員岡崎柾男君を助手として、再度、伊賀を探訪し、市役所のジープを出して頂き、奥瀬さんに案内をお願いして、大事なところは殆どみな実地に行って見た。上野市の図書館や、忍術関係の古書の蒐集で名高い沖森書店で、本を見せて頂いた。殊に上野市の図書館からは、門外不出の忍者の秘伝書「万川集海」の写本を、特に東京まで送って頂いて、借覧した。その他の参考書も手当たり次第に読んだ。足立巻一さんからは、たくさんのノートその他を見せて頂いた。やや目途が立ったので、戯曲に書こうと志し初めた所へ、「アカハタ日曜版」の編集長の樋口さんから、日曜版に何か面白い歴史小説を書け、というお話があったので、戯曲よりも先に小説で書くことにした。そして一九六〇年の九月四日に第一回十枚をお渡しした。ところがその十二日には、訪中日本新劇団の団長として羽田を出発せねばならぬ。そこで大いに勉強して十日迄に第七回までの六十枚を書いてお渡しした。トランクの中には地図類、参考書類、ノート類を入れて、以後二ケ月間、北京、上海、武漢、広東の各地のホテルで書き次ぎ、帰ってからの忙しい中も中絶することなく、年を越した。
そのうち、大変評判がいい、というので、いよいよ脂が乗って来たところへ、初めは五十回位というお約束だったのが、もう少し延ばして、というお話で、ついに七十九回迄続いて、今年の五月に、約八百枚で一応擱筆した。山本薩夫君が大映で仕事をする第一回作品に、という話があり、高岩肇君のシナリオも大変面白く出来、目下、京都の大映撮影所で、市川雷蔵の石川五右衛門、伊藤雄之助の百地三太夫と藤林長門守、西村晃の木猿、というような配役で、撮影中である。
一方、後回しになった戯曲の方も、九月末から書き初め、来年一月十七日初日で、東京芸術座が都市センターホールで上演することになっている。こうして一応、天正伊賀の乱で擱筆をしたものの、当時よそに派遣されていて、命を助かった伊賀者や、この乱では被害者でなかった甲賀の忍者たちのその後のことで、書くべきことがまだまだある。ことに石川五右衛門が、信長暗殺の目的を遂げぬうちに、本能寺の変があり、脅迫者からも使命からも、一切解放されて自由になった筈だのに、一転して太閤暗殺を志すようになり、失敗して捕えられ、釜ゆでになるまでの顛末は、どうしても書かねばならぬ。小説でも、戯曲でも、映画でも、これが今後の課題として残っている。
小さい頃、立川文庫で猿飛佐助や霧隠才蔵などの活躍に接した時から、忍術などといういうものは、全然のウソで、空想の産物だと思い込んでいた。それが全部が全部ウソではない、と思い初めたのは、昭和七年に治安維持法違反でつかまって、東京中の警察をタライ廻しにされて、何ケ月目かにとうとう水上署に廻されて来た時だ。そこは隅田川の河口に近く、川に臨んでおり、人間の形とは思えぬように変容した土左衛門や、川に捨てられた赤ん坊の屍体などにお目にかかる機会があった。そこのきたならしくて薄暗い留置場に、何度めかの継続二十九日間、入れられていたわけだが、思想犯が廻されてくることは稀だったのか、そこの司法主任の、名前は忘れたが、柔道何段かで、豪傑みたいな男が、妙に私に好意を持ってくれて、どうせ君たちは、これから検事局に廻されて、長くかかる人だから、シャバの見納めをさせてやろう、といって夜になると、私を外に連れ出した。
四月につかまって、もう夏の暑い最中だったが、日が暮れると、刑事たちは、立ちん坊、職人、学生いろいろな者に変装して出て行く。司法主任は刑事部屋の戸棚から、腹掛けやハッピを取り出して、自分も着、私にも着せて手錠もなしで、ブラブラと外へ出掛ける。お祭りの人ごみの中にも出て行く。たとえ私が逃げようとしても、難なくつかまえられるという、体力的な自信があったのだろう。
或る時は、ゾロリと角帯で着流しという姿で、小さな料亭にあがり、酒を呑ませてくれた。そして「酒なぞはこれが暫くの呑み納めだぜ。酔っ払ったらかついで帰ってやるよ。ハハハハどうだい、こうしていりゃア、国賊と岡っ引きだとは、誰も気が附きゃアしねえさ。これが忍術というものさ。ハハハハ」と笑った。
当時の留置場には、小さい監房ごとにそれぞれ牢名主がおり、新入りをいじめるという徳川時代のような習慣も残っていた。また、前橋市の留置場などは(そこへ小林多喜二、中野重治と一しょに入れられたことがあったが)直径二寸あまりの丸太の格子で、伝馬町の大牢をしのばせる造りだった。「旦那」とか「お役人さん」とかいう呼び方も、伝統を感じさせた。
忍術の一部が警視庁に伝わり、戦時中の中野スパイ学校に受け継がれた、ということを、私は実感をもって受け取ることができた。この小説のできた遠因は、そんな所にもあったのである。
(村山知義、理論社小説国民文庫「忍びの者」62年刊あとがきより)
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