大ヒットした『忍びの者』

 撮影は、主に大映京都撮影所で行われた。あのころ企業には、レッドパージを受けた人間に対する恐怖心のようなものがあり、京都の大映でも、それまで独立プロ一本でやってきた私をどこか異端視するような空気が撮影所内に漂っている感じがするのである。まるで赤鬼が来たとでもいうように、みんな窓を細く開けてこちらをうかがっている気配がするのである。そのうえ撮影所長にも、

 「『忍びの者』なんて、題名が悪いよ。第一、こんな忍術の話なんて受けるのかな」

 などと言われ、全体としてあまりしっくりなじめなかった。

 忍術に関しては、私もいろいろと調べてみた。忍術の研究家である伊賀上野の助役に会って話を聞いたり、千葉県の野田で接骨院を経営している戸隠の何代目かの人に会い、実演してみせてもらったりした。この人には、撮影のときにも協力してもらっている。また、奈良に住んでいる戸隠の先代という人にも会った。手裏剣をカードで実演してみせてくれたが、この人がやるとカードは水平に空気を切って走った。

 撮影に入ってから、独立プロ時代の貧乏根性がしみついているせいか、私は予算が気になって仕方がなかった。ところが物語の背景は戦国時代だから、戦争の場面も出さなければならないし、そうすると予算がどんどん上がっていく、百地砦は、自衛隊の石打の練習場を借りて、そのなかにわざわざつくったのだが、最後にはこの砦を爆破してつぶしてしまわなければならない。予算は上がっていくいっぽうであった。

 また、時代劇の役者というのは、歌舞伎の系統を引いている者が多い。したがって市川雷蔵にしろ城健三朗(若山富三郎)にしろ、みんなお付が二、三人ついている。ロケーションに役者を四、五人連れて行くとなると、お付の分も含めてハイヤーが10台ぐらい必要になってしまう。<予算がないのに困ったな>と、絶えず気がかりであった。

 ただ、撮影に入ると、石川五右衛門の市川雷蔵も織田信長に扮した若山富三郎も、実に熱心に役を演じていた。雷蔵さんには、スターにありがちな横暴なところがない。自分で新劇のようなものもやってみたいというような、まともな考えをもった人であった。役者としては、百地三太夫の伊藤雄之助がやはりユニークであった。

 映画が出来上がると、これがものすごく観客を動員し、一種の忍者ブームがまき起こるほどの人気を呼んでしまった。永田の御大はびっくりして、私を呼び出して、

 「すぐ続編をやってくれ」

 と言う。続編といっても、五右衛門は釜ゆででおしまいである。釜ゆでは伝説であるとしても、私はそこまではやらなければならないだろうと思っていたので、

 「それでは、釜ゆでまでをやりましょう」

 と引き受けた。信長が本能寺で殺され、秀吉の天下になり、最後に五右衛門がつかまって釜ゆでにされる。そこまでが続編だが、これにもやはり戦争の場面があり、相変わらず予算を気にしながらの撮影となった。ところが、この続編もまた、第一部同様に当たり、永田雅一はすっかり喜んでしまった。

 忍者ブームはいっそうはげしくなり、手裏剣がはやり出し、はなはだしいのは、忍者の真似をしていた子供が、失敗して首をつり、死んでしまうというニュースまで入ってくるようになった。それで私も<これは悪い影響を与えてしまったな>と反省しているところへ、また永田さんから呼び出しがかかってきた。行ってみると、

 「あのなあ、相談があるんだけどなあ」

 と言う。

 「『忍びの者』を雷蔵のシリーズにしたいんだけど、第三部をやってくれないか」

 「いや、五右衛門は釜ゆででしんでしまったんですから、つづきはもうできないですよ」

 「しかし、あれは忍者の話だろう。あのときは、実は五右衛門は釜に入ってなかったということだって考えられるんだ。替え玉が入っていて、五右衛門は生きていた。そういうことにすれば、第三部はできるじゃないか」

 と永田さんはいいかげんなことを言う。

 私は、自分の考え方を述べてみた。- 忍者はもともと中国のものであり、仏教とともに日本に伝来し、仏教を守るために使われた。忍者たちは、信長の仏教弾圧にも抵抗した。その後忍術は日本的な発達をし、秀吉の朝鮮出兵には、忍者たちは尖兵となって海を渡った。ところが朝鮮にも忍者がいて、日本の忍者は前哨戦でこれに敗れている。秀吉から徳川の天下に変わると、服部半蔵らが出てきて謀略に使われるようになった。天下がおさまると謀略はいらなくなり、忍者は江戸城のお庭番になっていく。やがて明治維新で幕府が倒れると、警察庁ができ、忍者はそのなかに入って特高となり、さらに陸軍中野学校へと入って行く。現に千葉県にいる忍者の第一人者は、甲賀出身で、中野学校にも籍を置いていたという。村山知義は決してインチキを書いているわけではない。そういう忍者の歴史ならやりたい - と言ったのだが、それでは主人公がどんどん変わり、雷蔵だけではシリーズがつづかなくなるからだろう、永田さんは、これには賛成しなかった。

 「そうですか、とにかくぼくは、五右衛門で第三部はつくれません。村山さんがそれでいいと言っても、ぼくは演出をお断りします。やるなら他の監督でおやりなさい」

 そう言って私は引き揚げた。

 その後『忍びの者』は、大映のドル箱シリーズとして、他の監督で六作ほどつづいた。五本目ぐらいになって数えてみると、五右衛門は二百歳ぐらいになっている。それで、ついに主人公は霧隠才蔵に代わっていった。 

                                (84年2月 新日本出版社刊 「山本薩夫 私の映画人生」より)

『忍びの者』撮影中の著者と主演の市川雷蔵

 

 

YaL.gif (1987 バイト)