二人の知り合った経緯

 不景気到来の予告で、騒音だけがカラまわりしている昭和三十六年の暮れも押しつまった二十八日、赤坂プリンス・ホテル201号室で、大映スター市川雷蔵と遠田恭子さんの婚約が発表された。

 ライト・ブルーのスーツに身を包んだ婚約者遠田さんは、終始、雷蔵の言葉のかげで、生れてまじめてのフラッシュを浴びていた。つめかけた記者団の質問が、予想外に遠慮深かったのは、おそらく市川雷蔵が、京都を舞台に映画生活をつづけていたため、親しい東京の記者が少なかったせいか。あるいは雷蔵の冷静な人柄がつくったフンイキだったかも知れない。同僚と一緒に騒いでいる時も自宅の室に座っている時も、いつも自分を失わない人━市川雷蔵とは、そんなスターである。

 記者団から、二人が知りあった動機を聞かれて、雷蔵は遠田さんにちょっと視線を走らせると、落ちついた口調で口を開いた。

 「一部に、『炎上』の時に知りあったといわれているが、本当は一昨年(昭和三十四年)にハワイに行った時、ハワイ国際劇場の木村さんという方に、大そう世話になりました。帰国してからその時のお礼の意で、木村さんと娘さんを日本に招待したのですが、その時、木村さん親娘の案内役をしたのが、この恭子さんです。当時のわたしは『大菩薩峠』の撮影に入っていましたが、その時はじめて恭子さんと会いました。もっとも主賓が木村さん親娘でしたので、別に恭子さんに対する印象はうすかったのですが・・・。お互いが好意を持ちはじめたのは、今年昭和三十六年の夏ごろからだったと思います」

 はっきりと答える雷蔵の言葉に、記者団の中から、ときどき、オヤッというつぶやきがもれている。

 いままで、かずかずのウワサにさらされてきた市川雷蔵の身辺に、遠田恭子さんの名が浮かび上がったのは、実は、雷蔵が言うように、半年前の夏からではなかった。

 だから、婚約発表の記者会見の通知に、婚約者は遠田恭子さんとあったのをみて、“やっぱり”と一様につぶやいたのだ。実際には、一年以上も前からきまっていた婚約ではないだろうかと、ほとんどの記者が思っていたのである。もちろん、その理由はいくつかあった。

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(週刊大衆 01/20/62号)