赤松燎「白竜図」部分

 

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 昭和40年代に大岩甚之助一代記や、昭和50年代になると関西新聞社の連載小説の挿し絵などを描いた。またこの頃、当時太秦にあった大映の撮影所で、市川雷蔵(1931・昭和6年〜1969・昭和44年)に赤松を引き合わせたのが、赤松と親交のあった映画監督の池広一夫だった。こうして、昭和40年代頃から、役者に刺青を描くアルバイトをするようになった。

 

顔の事についての思い出

 彼は小生をロケの時、何時でも「赤松さん、私の車に乗ってよ」と云うので、一度断ったら、「どうして?」と言うので、「貴方は、日本の美男の代表。私はブ男の代表。とても同乗はかんわん。男は顔の事は云わないものと云いつつも、アナタは」と云うと、キツイ顔して、「私の顔は商品。アナタの顔は、印象的な哲理の顔。何と云う事を云われるの、私は大好きな顔なのに」と、ゴキゲンが悪いので、「では」と云うと、ゴキゲンがすぐになおり、再び顔の事は云わない事にした。従って、私のこの顔は、雷兄にホメラレタ顔なんです。笑止々々。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)

孤独な雷兄

 私の行為に対してとても感謝してくれていた。周囲の人々にも、赤松さんは普通の人と違うんだよ。誠意を持って接せよと云って居たと云う事を、村井氏から聞いて恐縮しています。私も一生懸命、兄にさして頂いたつもりです。雷蔵が芝居にいるなら、下駄の裏にでも歓んで書くよと云った、絵を。(「市川雷蔵追悼集」に記した赤松のメモより)

 ところが、人気絶頂だった二枚目スターの雷蔵が、昭和44年7月17日に、37歳で急逝した。赤松は、この悲報に触れ、嘆き悲しんだ。その落胆ぶりは、この世が終わったかのようだった。

 昭和45年7月17日、ノーベル書房から市川雷蔵追悼集「侍・・・市川雷蔵 その人と芸」が出版された。その追悼集の余白に、昭和45年9月24日夜、記した赤松のメモからは、雷蔵に寄せた特別な思いが伝わってくる。